The Green Catalyst
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物語の力- Othersとして人間性を奪われた人々の人間性を取り戻す

Yoko Marta
06.06.22 02:41 PM Comment(s)

 物語という芸術は、最後に残された民主主義的な場所の一つであり、人間性を取り戻すためのレジスタンス

エリフ・シャファック(ELIF SHAFAK)さんは、トルコ/イギリスの小説家、アカデミック、人権活動家です。イギリスを居住地としているので、BBC(イギリス国営放送)等のラジオ番組にも出演し、柔らかく穏やかな話し方と鋭い考察、平等・正義への強い意志の対比が印象的です。

彼女は、トルコ人の両親の下にフランスで生まれ育ちます。父は哲学の博士号をフランスで勉強していました。両親が離婚した後、彼女は母とともに、母の実家のトルコの首都アンカラへと引っ越します。彼女は5歳くらいでした。彼女の母方の祖母は、自分自身は高い教育を受けていなかったにも関わらず、エリフさんの母に、教育を受け、自分のキャリアを持つことを勧め励ましサポートしました。彼女は大学を卒業し、のちに外交官として活躍しました。エリフさんは5歳から10歳までの間、ほぼその祖母に育てられました。Guardian Newspaperの記事で、当時は離婚は非常に珍しく、離婚した女性は危険な状況にあると見なされ、すぐに、もっと年上の男性をプロテクター(守護)として嫁がされるのが普通だったそうで、家父長制の非常に強い社会での祖母の考えは非常に革新的なものであったそうです。エリフさんは、母が外交官になった後は、母に伴い、いろいろな国に住むこととなります。

同じ記事の中で、母方の祖母と父方の祖母の宗教観についての違いを語っています。少しだけ、背景について。トルコでは、アタチュルク大統領が政教分離を打ち出し1923年にトルコ共和国を設立しました。近隣のイスラム諸国と比べると、比較的ゆるやかに宗教と生活が融合した社会でしたが、現在のエルドアン大統領が就任して以来、宗教の縛りをどんどん強め、発言の自由を求めるジャーナリストや学者の多くが投獄されています。エリフさんも、彼女の著作の中の登場人物がトルコを批判しているということで、国辱罪ということで裁判にもなりました。民主主義がどうにか機能している国々から見ると信じられない話ですが、物語(フィクション)を語ることさえ政治から逃れられない難しい状況です。イスラム教というと、ヘッドスカーフ等が話題になりやすいですが、ロンドンでもイスラム教徒の姉妹のうち一人はヘッドスカーフをかぶり、もう一人はかぶらない等、さまざまです。それは、家族の属する民族や地域等による部分もあり、それぞれの個人の解釈も違うため(違ってていい)だそうです。長い前置きとなりましたが、エリフさんは母方も父方の祖母も、ほぼ同じ年齢で同じ社会階級、同じ宗派だったけれど、母方の祖母は宗教の解釈を「愛」を基盤とし、父方の祖母は「恐れと恥」を基盤としていたので、二人の宗教・人生への姿勢は全く違ったものだったそうです。母方の祖母が、当時では考えられなかったような決断(エリフさんの離婚した母(女性)に、教育と自分自身のキャリア・人生を一個の人間としてもつことを勧めサポート)をしたのも、「愛」を基盤としていたから、彼女の思考の中では特別なことではなかったのかもしれません。ただ世間や親戚からの風当たりはとても強かったのではないかと推測します。

エリフさんは、物語を書くことを通して、発言の自由、家父長制からの解放(女性の自由)、平等・公平な社会を求める声を上げ続けています。国辱罪として問題とされた著作は「The Bastard of Istanbul」で、日本語には翻訳されていないようですが、トルコでのアルメニア人虐殺が物語の重要な鍵となっています。非常に複雑なストーリーなのですが、謎解きのようにはまってしまう人々も多いと思います。日本だけに住んでいると見えにくいかもしれませんが、このアルメニア人虐殺は非常に議論をよぶものです。トルコは長年EU加盟を求めていましたが、この虐殺をトルコが認めないということが大きな原因でいまだに加盟を認められず、ナショナリストのエルドアン大統領が登場して以来、虐殺はなかったという主張で、この話題に触れることすら、身の危険を伴う状況です。それにも屈せず、物語を書いたエリフさんはとても勇敢です。裁判は、結局無罪となりましたが、彼女のストレスは相当なものだったそうです。


エリフさんは著作も多く、講演、Discussionや新聞のコラム等、多くに登場していますが、日本語に訳されているものはわずかでしょう。英語がいつまで主流なのかは分かりませんが、現時点では、英語が理解できることで、さまざまな思考にアクセスできるのは大きな利点でしょう。知識は人(特に社会的に弱い立場に置かれた人々)を助けます。


最後に、物語を書くことについての、彼女のGuardian Newspaperの2020年の記事より。短くて読みやすいので、原文を読むことをお勧めします。

ざっとした内容は、以下となります。※ダイレクトな翻訳ではありません。

「Others:自分たちマジョリティーとは違う他人」として人間性を奪われた人々の人間性を取り戻すためには、(現在出回っている物語とは)違う物語を語る必要がある。
近年、ヨーロッパではナショナリズムやファシストの台頭が目立ってきており、それに伴いその国でのマイノリティー(宗教、民族、人種、出身地、階級等)がターゲットになる事件が増えています。これはヨーロッパだけでなく、ブラジルやトルコ、インド等他の国々でも同じ傾向です。ここで本質的に一致しているのは、「異なる/違う」と見なされる人々に対してのバイアスと体系的な憎しみで、「他人」から人間性を奪うことです。これ(人間性を奪うこと)は、虐殺やナチスの強制収容所から始まることではなく、言葉から始まります。例えば、ステレオタイプや決まり文句、修辞や比喩です。この人間性を奪うことに対しての闘いは、同じく言葉から始める必要があります。何も知らない人々について、一般化したことを語るのはとても簡単です。その人たちは抽象的なものとしてしか存在しないからです。だからこそ、人間性を奪われた人々の人間性を取り戻すためには、このプロセスをリバースする必要があります。これには、物語を語る卓越な技術が必要です。データや事実を示す情報は重要ですが、自分たちの部族や社会に属さないと見なす人々に対しての共感を持つことを助け、無関心や思考・感覚麻痺の壁を倒すには十分ではありません。家父長制に対抗するために仲間の助けが(Sisterhood)必要なように、宗教・人種・民族等についての頑強な偏見には物語の助け(Storyhood)が必要です。世界の西でも東でも、私たち人間は、物語を通して他の人々と関わります。文学は、パワフルで普遍的であり、癒しとなります。近年は、緊縮財政ということで多くの公立図書館が閉鎖されました。不平等がはびこり、偏見がエスカレートしている現在こそ、創造性にサポートが必要です。社会での共存やインクルージョン、デモクラシーとクリエイティブ業界へのサポートには相関性があります。物語という芸術は、最後に残された民主主義的な場所の一つであり、人間性を取り戻すためのレジスタンスとして、主要な行動となるべきです。

Yoko Marta