The Green Catalyst
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伝統・慣習への新しい視点

Yoko Marta
24.05.22 03:55 PM Comment(s)

ダウリー(結婚持参金)を廃止したインド、カシミールの村

UKの独立系新聞のガーディアンより。
オリジナルの記事は、ここより。

インドでは、ダウリー(結婚持参金)は1961年に違法とされましたが、いまだに慣習として根強く続いており、ダウリーに絡んで、1日に20人の死者(殺人、自殺)が出ているとされています。(例/結婚持参金をさらに引き出すために妻を虐待したり、新たな結婚持参金を得るため、妻を殺人して別の女性と結婚する等)

この根強い慣習が続くインドのカシミール地方の150家族の住む村、Babawayでは、このダウリー制度を2004年に禁止し、それ以来、ダウリーに絡んだ死者や女性への暴力もなく、離婚もないそうです。Babawayは、農業とパシュミナストールを作ることが主要産業の村です。

どうやって、この根強い慣習の廃止を提起し、新たな慣習を作り、それを続けることができるのでしょうか?

この村の長老の一人、イマーム(イスラム教の指導者)のアフマッドさんは、ダウリーに絡んだ殺人や一家の全財産をなげうつレベルの金額に疑問を抱いていました。2004年に村の長老20人を集め、どうやってこの「邪悪な慣習」を止められるのかを話し合います。数日の話し合いの後、長老たちは村人に以下の提案をします。
  • 妻となる女性の家族は何も払わない(ダウリーの完全な禁止)
  • 夫となる男性の家族は、900ルピー(約1350円)相当のお金か物品を、結婚時に妻となる女性にMehr(イスラム教での義務)として支払う
  • 夫となる男性の家族は、15000ルピー(約23000円)を妻となる女性の家族に支払う
  • 夫となる男性は、結婚式用に50キログラムの肉と40キログラムの米を用意する
  • 夫側の結婚式への招待客の数は40人を上限とする
この提案を受けた村人は、素早くこの新しい慣習を受け入れます。

以前は、数百人の招待客が招かれ、ダウリーは100000ルピー(約150万円)を超える場合もあり、非常に大きな負担で、特に女性を暴力やハラスメントにさらす危険性を高めることには誰もが危惧していたそうです。
ダウリーを禁止して以来、村人は子供たちの教育に力をいれたり、もっと実りのあることにお金をつかうことができ、満足しているそうです。中には、他の村に住んでいる親戚に、この新しい慣習を勧めている村人すらいるということです。

この新しい慣習を続けていくためには、Peer Pressure(村人同士の相互圧力)が必要ですが、アフマッドさんは、ルールを破れば他の村人から受け入れられない、としています。この場合は、誰もが古い悪しき慣習をやめたいと思っており、新しい慣習の良い結果をすぐに目の前に見ることができたので、難しいことではなかったでしょう。

この新しい慣習は、ずっと変わらないわけでなく、定期的に見直しが行われます。
最近では、大きな物価の変化に伴い、夫となる男性の家族から、妻となる女性への家族への支払の金額についての見直しが行われました。長老たちと村人で話し合い、新たな金額が合意されました。

これは、私たちのもつ、伝統や慣習についての「思い込み」について考える良い機会ではないでしょうか。

慣習や伝統は、どこかの時点で作られたものであり、時代や状況が変わり、その慣習が多くの人々にとって悪い影響を与えていれば、廃止されるか、新しい慣習に変えるべきです。

慣習や伝統を、「絶対に変えてはならない」と思い込み、考えることを停止している人々は、地球上のどこにでも一定数います。政治学者のKaren Stenner(カレン・ステナー)さんによると、国や民族に関わらず、全体の3割くらいは、複雑な社会の考え方にはついていけず、自分が幼い頃言われた考え方や周りの人々が言うことだけが正しいと、自分を閉ざし、違った考えを全く受け付けられないそうです。これが宗教であれば、原理主義ということで、数千年前に書かれたとされる聖典をある時点でその時代の知識や社会のありように基づいて誰かに解釈された教えを、一字一句そのままに従わないといけないとし、過激派になる方向に進みます。これは、キリスト教でもイスラム教でも他の宗教でも同じです。どの主要宗教でも、リーダーや学者は、宗教に対して疑問がわくのは普通であり、疑問を投げかけ続けることは大事だとしています。聖典と呼ばれているものは、数千年前に書かれたものであり、解釈は一通りではありません。私の友人はエジプトで初等教育を受けましたが、40度を超えるような日に学校の制服のネクタイをしていられない、ということで生徒から先生への疑問があがったそうです。先生たちは、宗教上の教えに沿ってネクタイはすべき、と言ったものの、数千年前に書かれた聖典に「学校ではネクタイをするべき」という項目がないのは誰にも明らかです。学校側は、宗教学者に問合せ、結局はネクタイはしなくていいことになったそうです。

ヨーロッパに住み、ヨーロピアンと交流していると、日本がいかに既に意味を失った、或いは人々にネガティブな影響を及ぼす、「伝統・慣習」に囚われているかということに気づきます。一人で変えるのは難しいですが、疑問をなげかけるだけでも物事は動き出す出すかもしれません。言葉にして表現すると自分の安全が脅かされると感じるのであれば、少なくとも考える自由はあることを認識し、考えることを諦めないことは大事です。もし、あなたが特権のある立場にいれば、ぜひ声に出して良い変化を起こしていきましょう。特権は、たまたま生まれた環境や属性についてくるもので、それ自体は良くも悪くもありませんが、多くの人々のために使うことで大きく活かされるでしょう。

Yoko Marta