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「恥の文化(SHAME CULTURE)」と「罪の文化(GUILT CULTURE)」- 間違いが起こった場合のアプローチの違い

Yoko Marta
26.07.22 01:35 PM Comment(s)

「恥の文化(SHAME CULTURE)」と「罪の文化(GUILT CULTURE)」- 間違いが起こった場合のアプローチの違い

イギリスの国営放送BBC Radio4では、「Thought for the day」という、朝7分程度、様々な宗教学者やリーダーが、最近考えたこと、思ったことについて話します。

既に亡くなりましたが、ユダヤ教のラビ、サックス氏の話は、内容も興味深く分かりやすく話してくれる人で、この番組にもよく登場しました。思考の深さとフレンドリーで親しみやすい人であったので、宗教に関係なく、さまざまな人々が対話を楽しみました。英語が分かるということは、こういった思想にも広く深く触れることが可能とし、人生の楽しみを増やします。

2014年の放送分となりますが、ざっとした内容は以下の通りです。

つい最近(2014年の放送時点)、医師会、看護師会が、「医療者は、患者に対して正直になり、間違いがあったときには謝りましょう」という内容がガイドラインに加えられました。
最も思いやりがあり、献身的で非利己的な医療者たちに、このようなガイドラインを示さないといけないというのは、いったい何が起こったのでしょう。ヨーロッパでは、ここ半世紀ほど「訴訟社会」となりつつありますが、ここでは、人類学者Ruth Benedict(ルース・ベネディクト)の観察した、古代ギリシャに存在した「恥の文化(Shame Culture)」と、キリスト教のような「罪の文化(Guilt Culture)」とを振り返ってみましょう。
どちらも、「人々がどう振舞うか」ということを教えますが、間違いが起こった場合のアプローチに大きな違いがあります。

「恥の文化(Shame Culture)」では、他の人々があなたのことをどう思っているかが重要です。恥ずかしさ、屈辱、顔を失うこと。
「罪の文化(Guilt Culture)」では、心の内側の声、Conscience (良心)があなたに語ることが重要です。

「恥の文化(Shame Culture)」では、私たちは公共の舞台で役割を演じている役者です。
「罪の文化(Guilt Culture)」では、私たちは自分の中で、自分たちの良い性質である天使と内なる会話をしています。

「恥の文化(Shame Culture)」での一番大きな違いは、もし私たちが間違いをしたとすれば、私たちのキャラクター(性質・個性)への汚れは、とても長い時間をかけてしか消せません。

​「罪の文化(Guilt Culture)」では、「行為を行った人」と「行為」、「罪をおかした人」と「罪」の間に鋭い区別をつけます。そのため、「罪の文化(Guilt Culture)」では、償い、悔い改める、謝る、赦すということに焦点がおかれます。行動は間違っていたけれども、それが私たちのキャラクター(性質・個性)に消えない汚れを残すということはありません

「恥の文化(Shame Culture)」では、もしあなたが間違ったことをしたとすれば、最初のルールは、「見つからないようにしろ」です。もし見つかったら、徹底的にごまかします。他のすべての選択肢が失敗した場合のみ、間違ったことをしたことを認めます。なぜなら、本当に長い間、信用を失うこととなるからです。

「恥」というのは、どんなモラルシステムにも存在しますが、「恥」が他のすべてを支配するとき、私たちがもっているのは公共への暴露による裁判のみであり、より多くの人々が正直になることを避け、公共の生活の中の人々、政治家や医者、メディアや経済機関や企業に対して、より疑いをもつことになるでしょう。もちろん、宗教機関に対しても同じです。
私たちは、人々が正直になり謝罪することをもっと簡単にしなくてはなりません。それは、私たちが、「赦す」ことを学ばなければいけない、ということでもあります。

サックス氏が引用している人類学者、ルース・ベネディクトさんは、第二次世界大戦中に日本についての観察を「菊と刀」に記述しました。この本の記述が偏っているという意見も聞きますが、そう言っている人と話してみると、実は読んだことがない、ということが非常に多かったという、不思議な個人的体験があります。私自身は、イギリスに暮らす前、暮らした後に読みました。著者は戦時中で実際に日本に行くことはできなかった為、さまざまな文献や文学、アメリカにいた日本人等のインタビューという限られた情報だったにも関わらず、鋭い観察眼をもって書かれていると思います。私自身は、イギリスに住んで数年たってから読んだときに、腑に落ちることがたくさんありました。ここで、ルースさんは、日本は「恥の文化(Shame Culture)」と分析しています。私自身、実際にヨーロピアンの家族や友人とヨーロッパで数十年過ごし、それは事実であると感じることが多いです。

ヨーロッパでは、よく以下のようなことばを聞きます。
「神様じゃないんだから、人間は誰でも間違えることはある」
「間違いをする権利は誰にもある」
「間違いからしか学べないことがある」
「一度も間違えない、というのは人生においてなんのチャレンジもしていない、何も学んでないということだ」
「同じことだけしていれば間違いはないかもしれないけど、そうすれば人類はいまだに洞窟で暮らしていたか、気候や環境の変化に対応できず死に絶えていただろう」


また、ヨーロッパでは、「自分が鏡に映った姿を、自分でまっすぐ見られないようなことはできない」ということばは、日常でもドラマの登場人物からも聞くことがあります。これは、他の人からどう見られてか、は全く問題ではなく、自分の内側のモラル等の生きていく上での大切な価値観と行動が一致していることが重要であることを示しています。

日本語と英語は文化という土台部分がかなり大きく異なっているので、多くの英語の言葉がねじれて使われていることが多いと感じるのですが、「モラル(道徳)」ということばもその一つだと思います。日本だとモラルは、そこにある規則や慣習(=外側から強要されるもの)に、その規則や慣習の妥当性や正当性は関係なく、盲目的に従うことのように感じますが、ヨーロッパだと、モラルは個々人の内面にあり、外側から強要されるもの、という要素は非常に小さいと思います。イタリア語には、「できる/できない」という単語はいくつかあり、「自分の外側にある理由で、できない」のか「自分に内在する理由で、できない(物理的にできるけど、自分のモラルや内在する価値観に反するのでできない)」のかを選ぶ必要があります。日本語に翻訳されれば違いは分からないですが、既に日常のことばの中にモラルの感覚が存在しています。

イギリス在住のトルコ人作家・アカデミック・人権活動家のElif Shafak (エリフ・シャファック)さんも、母方・父方のどちらの祖母も年齢や社会的地位、教育レベル、育った環境や社会はほぼ同じだったにも関わらず、父方の祖母は「恐れと恥」を人生の基盤とし、母方の祖母は「愛」を基盤としていたので、二人の人生への選択・アプローチ・宗教の解釈は全く異なるものだったそうです。(私の書いた記事はここより)

私たちも、どのような社会に生きていようと、「恐れと恥」を基盤として生きるのではなく、「愛」を基盤として生きることを選択することが可能です。

そのためには、まず自分を赦し、愛することから始める必要があるでしょう。