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「自由」とは獲得するもの ー 毎日のエクササイズが必要な筋肉のようなもの

Yoko Marta
25.07.22 02:36 PM Comment(s)

「自由」とは獲得するもの ー 毎日のエクササイズが必要な筋肉のようなもの

Jean-Jacques Roussou(ジャン ジャック・ルソー)は「社会契約論」の著書の中で以下のように述べています。

"Man is born free and everywhere he is in chains."
「人間は生まれつき自由であるが、いたるところで鎖につながれている」

既に亡くなりましたが、さまざまな討論や講演に招かれていたユダヤ教のラビ、サックス氏は、上記のことばに疑問を投げかけています。
「人間は生まれつき自由であるが、いたるところで鎖につながれている」というのは、実際は、反対ではないだろうか?

私たちの幼い時のキャラクター(性格・人格)は、自分たちを生んだ両親からの遺伝子や、たまたま生まれ落ちた家族や友達、親戚といった環境からの影響、たまたま生まれ落ちた村・町・国の文化の影響から形成されています。

私たちは、生まれつき自由なわけではありません。
「自由」を獲得するために、私たちはハードに働く必要があります。
それには、自分を取り巻く文化から、意図的に距離を置くことが大切です。

大きな行動を起こす前に、立ち止まって自分自身と対話をする必要があります。

「私は、この行動をすべきだろうか?」
「この行動をしてもよいだろうか?」
「どのような行動規範を自分に課すべきだろうか?」
これは、自分の内在化されたアイデンティティーのナラティブ(物語)を含むので、私たちはあらゆる行動を起こすことができます。
これは、私が誰であるかを表し、私が支持するものだろうか?

自由は、贈り物というよりも、獲得するものです。

自由は、日常の数百にも及ぶ小さな自分で選んだ行動を必要とします。
自由は、毎日のエクササイズが必要な筋肉のようなものです。
使うか、失うか、の二択のみです。
これは、人生を大きく変える考え方です。

ここで使われている「自由」とは、物理的な自由ではなく、
精神的な自由です。
ヨーロッパに数十年住み、日常的にヨーロピアンや他の国々の人々と一緒に生活を分かち合い暮らしていると、自分も含めて、私たちがいかに自分たちが育った場所の特有の考え方に縛られているのかと気づきます。
すべてがネガティブな影響をもたらしているわけではありませんが、自分にとってネガティブな影響を与える不必要なものには、気づいて手放す自由があります。
私たちは、たまたま生まれた家族・親戚・民族や特定の場所や国の文化に縛られ続ける義務はありません。
ただ、今まで思い込んでいた、思い込まされていたことが、どんなにネガティブな影響を私たちに与え続けていたとしていても、それに気づくことは容易ではないことは、十分理解する必要があります。
自分が取り巻く文化から意図的に距離を置くには、英語で書かれた本や記事を読むことや、自分の文化に所属しない人々と、できれば日本語でない言語でダイアローグを持つことがとても有用です。
また、実際に自分が思い込んでいる・思い込まされていることを実際に紙に書き出してみると、客観的にみることができます。

上記で、「日本語でない言語」というのは、日本を含むアジアや中近東といった大部分の世界では、「恥・名誉」文化が色濃く反映され、言語はステータスを示すために使われることが多く、話す際に、自分を含めたすべての人々をハイラルキーにはめこまずに話すことは不可能なためです。


自分や他の人々に対して、常に上下の区別をつけるハイラルキーが強い場所で、自由に意見を交わすのはまず無理でしょう。
日本語だけ話すと気づくのが難しいかもしれませんが、英語では「I(私)」も「You(あなた)」も一つです。
上司だろうと、お年寄りだろうと同僚だろうと、誰もが「You」で、自分のことを指すときは「I」です。
男女の区別もなく、男性でも女性でも「I(私)」「You(あなた)」のみです。「あたし」/「僕」・「俺」といった男女の違いは存在しません。
日本語だと、代名詞の「I(私)」と「You(あなた)」は数多くあり、相手や周りとの関係性(ハイラルキーの上下関係)で「わたくし」「わたし」「小生」等、変わりますが、英語には関係性で代名詞が変ることはありません。
また、英語で書かれて記事や文献はとても多く、英語以外の言語で書かれたものも多くは英語に訳されているため、いろいろな考え方や思想に出会えます。
でも、英語やほかの言語で書かれたものが日本語に訳されているものは、本当にわずかです。
そうなると、入手できる情報は非常に偏ったものとなる可能性が高くなります。

また、WikipediaやFacebook等も、虚偽の情報について、英語の記事に関しては多くのチェックが入っていますが、日本語のようにマイナーな言語となると、チェックが行き届かず、意図的な虚偽の情報や、極端な意見(人々の怒りや恐怖といった感情をあおるようなもの)がなんのチェックも入らず、多く出回ることには留意しておく必要があります。

自分の思い込みや思い込まされていることを、紙に書いてみるというのも、自分の置かれている状況を客観視する一つの方法です。


例えば、ヨーロッパでは、「誰からも好かれなければいけない/いい人だと思われなければならない」といったことに重点はないし、そういった発言は聞きません。

大事なのは、自分に内在するモラルに従って正しい行動を選択して行っていいることであり、他の人々が結果的にどう思うかは重要ではありません。
また、他の人々が自分をどう思うかをコントロールできるわけはなく、完全に非現実的であることは明白で、このようなことを目的とすると、誰もが苦しむでしょう。
自分がコントロールできるのは自分だけであり、他人の行動や気持ちをコントロールすることはできません。
前者の「誰からも好かれなければいかない/いい人だとおもわれなければならない」というのは、「恥・名誉」文化の典型的な例ではないでしょうか。
ヨーロッパのように、「罪・潔白」文化では、モラルとして正しい・正しくないが基盤となっていますが、日本やアジア・中近東の国々では「恥・名誉」文化では、モラルや法律として正しい・正しくないではなく、人々の関係性が基盤となり、仲間に入れる/除け者にする、という連続性になります。
そのため、正しいことをしていようと、所属する団体(自分が所属していると明確に認識していないとしても)がその団体特有の見方にあなたの行動がそぐわないとして除け者にされると、あなたは生きることさえ難しくなると感じるかもしれません。
そういった状況への対策として、あなたは、「誰からも好かれよう」とし、「誰からもいい人だと思われる」ように、周りに贈り物をしたり、お世辞をいったり、親切だと思われるような行動をし、相手に「貸し」を作り、何かが起こったときは、銀行口座のお金のように、それを「引き出そう」とすることが無意識のうちに習慣になっているか、当たり前すぎて、その思考に気づかないかもしれません。

これは、多くの文化で行われていることであり、一概に良い・悪いとは言えません。
特に貧しい国々では、法律もよく整備されていなかったり、国家が国民を飢餓や内戦等から守れない場合、一般市民が何らかの秩序をもってある程度安全に暮らしていくためには不可欠な仕組でしょう。
ただ、この仕組は、政治腐敗や不正を拡大することに大きく貢献することは、明白です。また、非常に息苦しい社会になりがちでしょう。
日本のように経済的に国自体は豊かになり、法律もあり、ある程度民主主義が機能している国では、そういった古い慣習はネガティブな影響のほうが大きいのではないでしょうか?

ヨーロッパでは、見ず知らずの人でも、困っていると気軽に助けてくれるし、助けます。

それは周りの人のことを思って自然に出てくる行動で、自分のサバイバルのために「貸し」を作って、将来それを引き出すためではありません。
人々が、自分にできる範囲で、自然に他の人々をサポートし協力しあっていく社会は望ましいものではないでしょうか?

私たちには、
自分がどう生きるか、どういった社会にしたいのかを選択し、行動する自由があります。
少なくとも日本では、政治家の悪口を言ったために拷問を受けたり、理由なしで牢獄に入れられることは、まずないと思います。
まず、自分にとっても周りの人々にとっても、小さくても何かポジティブなことを行動に移すことから始めましょう
あなたの行動は小さくても、大きな変化の動きへとつながります。

Yoko Marta