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「不確かさ」と、健康な「疑い」を持ち続けることの大切さ

Yoko Marta
11.07.22 02:19 PM Comment(s)

「不確かさ」と、健康な「疑い」を持ち続けることの大切さ

イギリスの国営放送BBC Radio4で最近始まったシリーズ「The Archbishop Interview (カンタベリー大主教 インタビュー)」で、カンタベリー大主教のジャスティン・ウェルビーさんと、私の大好きな作家/人権アクティビスト/アカデミックのトルコ・ブリティッシュのElif Shafik(エリフ・シャフィク)さんの対話がありました。

ここから聴けます。

「カンタベリー大主教」と聞いても、日本には存在しないので今一つピンとこないかもしれません。
日本では戦後、政教分離ということで、政治と宗教は分離していますが、The United Kingdom(イギリスを含む4か国の連合国)の中のイギリスのみに該当しますが、イギリスのKingかQueenがイングランド国教会の頂点(最高ガバナー)に立ちます。現在は、エリザベス女王2世が、この地位です。ちなみに、イギリスの国歌は、「God saves the Queen」 (神は女王を守る)です。
イングランド国教会には管区が2つあり、そのうちの一つがカンタベリー大主教であり、現在は、ロンドン出身のジャスティンさんです。
もう一つはイギリス北部のヨークで、ここにはヨーク大主教がいます。
デモクラシーには合わないという批判も長い間あるものの、イギリスには貴族院があり、大主教に選ばれると自動的に貴族院に入ることにもなります。

ちなみに、第二次世界大戦後以降に、Monarchy(モナキー 君主制ーイギリスや日本の場合は立憲君主制)を廃止して、Republic(リパブリック 共和制)を選んだ国は、イタリアやギリシャを含めてたくさんあります。
イタリアでは皇族がナチスとも親交があったことで知られており、戦争がはじまるとすぐに国外へ逃げ、戦後の国民投票で共和制への移行が決定されました。皇族の男性たちは2002年までイタリアに居住することが禁止されていました。共和制への移行で、皇族が持っていた土地や財産はすべて国が没収したそうです。

ジャスティンさんは、とても気さくで、自身の鬱や、両親の離婚、父親のアルコール依存と父親から子供だった自分に対する暴力等についても、普段からオープンに語っています。エリフさんに、「どう呼べばいいかしら?」と聞かれて、即座に「ジャスティンで」と答えています。ジャスティンさんぐらいの地位になれば、職業のタイトルだったり、フォーマルに名字で、という人もそう珍しくはないと思うのですが、ここも、ジャスティンさんの偉ぶらない、普通の人々への共感が感じられます。

興味深かった点をいくつか。

エリフさんの「作家としての好奇心をどう保っていますか?」という質問に対する答え


自分自身の無知に気づいていること

現在は、知らないことがあればグーグルで調べれば出てきますが、これは自分がその件について知っているかのような幻想を与えますが、それはただのInformation(インフォメーション)であり、knowledge(知識)ではないことに気づいていなければなりません。

「私は知らない」と言えることはとても大事です。

「知らない」ことを知っているので、「これは知ったほうがいい。学ばなくては」と思えます。

これは、Humility(ヒューミリティー)の感覚でもあります。
日本語でHumilityは「謙虚・謙遜」と訳されますが、日本語のように社会の中で誰かとの地位やポジションの比較からの謙虚・謙遜という要素はなく、シンプルに「自分には知らないことがたくさんある」という謙虚な気持ちを指します。

中近東ではよく知られている詩人ルーミーですが、ある日彼の親友が、ルーミーのノートを海に投げ入れます。
インクはとけてこれまでの学びが消えるのを見て、ルーミーはパニックになりますが、これは、「Unlearn(学びなおすこと)」のきっかけでした。

エリフさんは、私たちは、今まで自分が真実を思っていたことを手放して、人生の生徒(初心に戻る)になることが大事だといっています。

Uncertainty(不確かさ)について ー 信仰と宗教に対する疑いについて

エリフさんは、フランスでトルコ人の両親の元に生まれ、両親の離婚に伴って母とトルコの首都アンカラに移住します。
トルコはイスラム教が主流の国ですが、ヨーロッパの自由な空気から、アンカラの中でも保守的な地域に引っ越して子供心にも大きな違いを感じたそうです。

エリフさんは、現代の伝統的な宗教にはコネクトできないと言っています。

彼女は、古代の哲学には興味をもっているけれど、特定の個人には興味がないとしています。

彼女にとって、古代の哲学は、すべてがつながっていて、円の真ん中に神がいて、円上の人々はみな平等(対等)で神から同じ距離であり、超越していると感じるそうです。

それに対して、宗教は、とがった三角(ピラミッド)で、頂点に神がいて、その下に人々というハイラルキーを感じて抵抗があるそうです。

彼女が宗教に抵抗を感じる理由は、宗教は「Certain(確か)」であり、「疑い」を禁じられているように感じる、と言っていました。

実は、ジャスティンも宗教に疑いを投げかけるのは大事だとしていて、自分自身もキリスト教に疑いをもったことはあり、それを正直に言うと、メディアから「カンタベリー大主教は神を信じていない」という間違ったセンセーショナルな報道と批判も経験したそうです。ジャスティンさんだけでなく、他の宗教研究者や宗教リーダーも、宗教に関わらず、聖典は大昔に書かれたもので、現代の科学知識や慣習とそぐわないこともあるし、疑いをもつのは自然なことで、疑問を投げかけ続けるのは大事だとよく聞きます。

エリフさんが気にかかるのは、宗教を盲目的に信じる人々が、「自分たちの真実は、自分たちの信じる宗教を信じない他の人々の真実より優れている」という「確かさ」の強い感覚だそうです。こう思っている人々は、自分たちは他の人々より神に近い優れた人々だと確信し、傲慢になることがあります。

どの宗教でも、原理主義者は、健康な意味合いでの「疑い」を消し去り、宗教の「不確かさ」を完全に除去しようと強く望みます

これは、無神論者にも該当しますが、危険です。

健康な意味合いでの「疑い」や、「不確かさ」の感覚はとても重要なものです。

エリフさんもジャスティンさんも両親が離婚しており、難しい関係の親に対する「Forgiveness(赦し)」にどう感じているかについて

ジャスティンさんの父は、アルコール依存症で子供たちにも暴力をふるう人でしたが、彼はジャスティンさんが21歳くらいのときに亡くなります。
後に、ジャスティンさんは、この育ての父の子供ではなく、母がチャーチル元首相の秘書として働いていた時の同僚との間の子供だと知ります。
育ての父は早いうちに亡くなり、彼の子供だった自分への暴力等の行動等を含めて「赦す」ということには、葛藤も経験し、今でも矛盾は感じているそうです。

エリフさんにとっては、離婚後の父は全く彼女に関わることはなかったものの、フランスで再婚し、再婚生活は愛情に満ちたものであり、学者として学生からも人望があったそうです。「もともと愛情が足りない人だとすればそう悩まなかったかもしれないけれど、再婚した奥さんには愛され、再婚後にできた子供たちにも愛情を注いでいるようなのに、自分には誕生日に連絡や訪れることも全くなく、憎しみをいだいた日々もあった。でも、私の子供(父にとっては孫)には、祖父に会う権利があり、誕生日等に誘うと来てくれる。それで私は今は満足している」と述べていました。

エリフさんの深刻な産後鬱の経験と、ジャスティンさんの鬱と娘さんの深刻な鬱について

エリフさんは、産後に深刻な産後鬱を経験したそうです。

もともと、アメリカやイギリスに住んだりさまざまな場所を移動する生活が合っていて、産後は家庭的なことや定住生活に苦しんだそうです。

この産後鬱について、エリフさんは、普段は生活に忙しくて自分の内面を深く見つめる機会は少ないけれど、この産後鬱で、自分のすべてがばらばらに地面に落ちて、一から一つ一つのパーツを拾って、さまざまな面から深く考えて自分を作り上げる必要性があり、その過程で、以前よりも少し良い自分になったと思うと語っていました。

ジャスティンさんは、娘さんも深刻な鬱になったことを公表して本も書いています。
自分が鬱になったときは、娘さんを見習って助けを求め、また、世間にもオープンに公表していました。
これは、他の人々にも勇気をもって助けを求めることを可能としました。

エリフさんは、「鬱は、Destiny(未来に必ず起こると決められていること)ではない。季節のようにめぐるものであり、私たちは一人ぼっちではありません。(=多くの人々が経験していること)」だと言っていて、ジャスティンさんも同意していました。

ネガティブな批判や憎しみについて

エリフさんもジャスティンさんも、とても公の人です。
そのため、多くの批判や憎しみを向けられることもあります。

ジャスティンさんは、多くの批評がよくても、覚えていがちなのはたった一つの悪い意見であるという自分の傾向をよく理解していて、全体を見るよう心掛けているそうです。

エリフさんは、話し合う重要性が高いものの物議を醸すテーマを、怖れず扱うことで知られています。
例えば、トルコのアルメニア人虐殺を小説で扱ったときには、小説の主人公が反トルコ的であるとして、トルコで実際に裁判にかけられました。
そのため、多くの批判にさらされることが多いのですが、彼女は、結局こういった憎しみに満ちた声は怒鳴り声で大きいけれど、実はとても少数であることに気づいています。彼女に賛同したりサポートする声は、ソフトだけれど、大多数だそうです。憎しみに満ちた声に傷つかないといったら嘘になるけれど、大多数のこのソフトなささやき声の存在をいつも意識しているそうです。

世の中には、深い怒りや悲しみを感じざるをえないようなこともありますが(代理戦争で多くの罪のない市民たちが巻き添えになって命を落とす等)、エリフさんは、その怒りや悲しみをどう建設的に、社会や世界のためになることに変えられるかがとても大切だと言っていました。
彼女の場合は、机に向かい、小説や意見を書くことがこれにあたります。

私たちも、無力に感じるだけでなく、小さくても行動に移せることはあります。それは、自分の身近な人々を思いやり、優しく愛情をまっすぐに示すことかもしれません。

Yoko Marta