Optimist(楽観的なひと)とPessimist(悲観的なひと)
Optimist(楽観的なひと)とPessimist(悲観的なひと)
楽観的、と聞いてどんなことを思うでしょう?
ヨーロピアンの中にいると、西ヨーロッパの人々は比較的楽観的な傾向が強いように思います。
楽観的、というのは、ただ単に将来は良くなるだろうとぼんやりと思って、何か良いことが起こることを期待して何もせず待っているわけではありません。
最近読んだ「Uncharted」という本の中で、イギリスのバース大学の先生であるMargaret Heffernan(マーガレット・ヘッファーナン)さんが、分かりやすく説明していて、自分の中でも腑に落ちました。
悲観的な人々=問題を避ける人々
楽観的な人々=ファイティング・スピリットをもって、問題に立ち向かい、創造的に解決する人々
2種類いる。
1.Explainers (説明する人々)
悪いことは永遠に続くわけでもなければ、ユニバーサルなことでもない(世界のどこかではいいことも起こっている)
2.Expectant (予測する人々)
問題を正しく認識し見ているが、問題は、ものごとを改善するための良い機会/ポテンシャル/創造的なブレークスルーを作る機会だと考える
西ヨーロッパに比較的楽観的な人々が多い傾向があるように思うのは、「失敗は、新しいことにトライした勲章/失敗は成功への必要なプロセス/誰でも間違える権利はある/失敗からしか学べないことがある」という土台にある考えや文化からきているところが大きいのでは、と思います。
ヨーロッパでは、自分にコントロールがあること、自分には全くコントロールがないことを見極めて、前者に対してはものごとが良い方向に向かうよう最大限の努力を行います。また、自分にコントロールはないものの、自分が少しでも影響を与えることができる場合は、自分の良心・モラルコンパスに沿って自分にできる範囲で行動します。
(例/同僚が上司から不当な扱いを受けている場合ー立場上、上司に対して不当な言動をやめるように指導することはできないが、不当な言動があったときに、ユーモアを使って、上司に自然と自分の言動を振り返って考えさせるような発言をしたり、他の同僚たちと一致団結してグループで上司やその上司と交渉する等、自分のモラルとして不当な言動を黙って見てみないふり(=その不当な言動を受入れ助長させる、加害者への共謀)はせず、自分が許容できるリスクの範囲で、何らかの行動を起こす)
「選択」という概念についても、銃やナイフを突きつけられて貴重品を差し出すよう言われれば選択の余地はないですが、物理的に命の危険がない場合には、選択の余地はある(たとえそれが小さな余地であったとしても)、というのが一般的な考え方だと思います。
日本で育った感覚からすると、勇敢な言動に見えても、「命がとられるわけでもないし」となんでもないことのように言われることも何度もありました。それは、恐らくヨーロッパでは一般的に自分の内側にある「良心」をコンパスとしてよい選択をし、勇気をもって行動することが推奨されているからのように思います。
また、誰かを神格化してその人の真似をするのではなく、「The best version of myself 」を目指すのも大きな違いだと思います。
「The best version of myself 」は、簡単に言えば、自分の良心・人々に対する共感・優しさを常に自分のコンパスとして、その状況で一番良い選択をし、それを行動に移し、常に自分の中で一番良い自分の姿であることだと思います。他の言い方では、「自分の中にいる天使と会話して(自分の中には悪い方向へとそそのかす悪魔的なものも共存しているのが普通)、正しいことを選択して行動する」もあります。
どちらにせよ、自分を他の型に無理やり押し込もうとするのではなく、一人一人はその人独自のいいところがあるので、それを一人一人が大事にいかして、伸ばしていくことで、自分や周りの人々、社会にも良い影響を与えていくということだと思います。
ヨーロッパと比べると、日本は、「恐れ」を基盤にした社会のように見えます。
「怖れ」を感じると、実際にはなんの危険がなくても、脳の古いサバイバルに関する部分が活性化され、言語機能や理論だった考え方をつかさどる新しい脳へのアクセスをブロックし、まともに考えられなくなることは科学的に証明されています。実際に野生動物に襲われて瞬間的に逃げないといけない場合には有用ですが、普通に生きていれば、これは逆にとてもネガティブな影響をもたらすでしょう。
仕事という面でいうと、日本人から「100パーセントうまくいく、という保証がない限り何もしません」「既に100パーセントうまくいったという実績ががあるビジネスやプロジェクト以外はやりません」といったことを21世紀になっても何度も聞きましたが、ヨーロピアンにしてみれば、未来のデータは誰も持っていないし、100パーセントうまくいくなんてあり得ないし、既に誰もがやっている確立されているビジネスモデルの真似をして何の意味があるのか、という反応になりがちです。
新しいチャレンジにはリスクはつきものだけれど、適切なデータを集め、リスクの度合いをはかり、いくつかのシナリオを作って成功する確率が高い方向で、計算されたリスクを取ることは十分可能です。
また、何にもチャレンジせず、今までのやり方だけでやっているのは、周りがどんどん適応して変わっていく中では、大きなリスクです。しかも計算されたリスクであれば、問題が起きてもチャンスに変えることが可能ですが、怖がって何もせずじっとしていると、外側からの大きな変化に否応なしに変化を迫られ、その際には、適切なResponse(レスポンス/対応)ができずReact(リアクト/反応)するだけになり、良い結果を生むことは難しいでしょう。これは、とても悲観的です。
これは、日本のチャレンジや貢献は評価せず、間違いや問題だけをカウントして点数を引くような慣習が影響しているのではないでしょうか。
そうすると、人々はどんな小さな間違いや問題も恐れ、何もしないという状況になるのは自然な結果でしょう。
でも、Fear(恐れ)からは、なんの創造的な解決策も生まれません。
ただ、「間違い」や「問題」の定義自体が、日本とヨーロッパでは違っているので、そこでも衝突や誤解が起こりがちです。
これも、なんとしてでも問題を避けようとする悲観的さと、ファイティング・スピリットで問題をブレークスルーの機会にする楽観的さの違いなのかなと思います。
西ヨーロッパだと、Curiosity(好奇心), Inquisitiveness(知的好奇心)は非常に大切にされます。
間違いは、知らなかったことを知るきっかけになったり、他にもっと良い解決方法があることに気づくことになったりするきっかけで、歓迎されます。
ただ、そういった環境を保つためには、ヒエラルキーは非常に害になると多くの人々が指摘しています。
日本文化で上記のような好奇心に満ちたオープンな環境を持つことが難しいのは、日本語という言語がヒエラルキーを強く表すようにできており、自分や話している人々をヒエラルキーピラミッドにあてはめることなしに(自分や人々に上位、下位といったレベルを貼ることなしに)話すことができないこともあると思います。
ただ、これも話すときは、円になって話す(上座等のヒエラルキーを入れない)、丁寧語のみにする(尊敬語・謙譲語は使わない)、すべての人は苗字にさんづけで呼び役職名は入れない、ファシリテーターが全ての人に同じ時間の発言時間を与える等、解決方法はいろいろあると思います。
ただ、マインドセットとして、どこに生まれ育とうと、社会での役割・経済力、身体の不自由さや病気の有無等に関わらず、私たちはみんな対等であり、一人一人が基本的な尊厳を尊重されるべき大事な存在であることを誰もが理解していることが前提となるでしょう。
西ヨーロッパに比べると、東ヨーロッパは、非常に複雑で痛々しい歴史を生きてきたこともあり、Cautious(注意深い)なOptimistである傾向があるように思います。
ロシア人の知合いが言っていたロシアの諺「Hope for the best, prepare for the worst (一番よいことを期待しつつ、最悪の場合に備える)」というのは、「希望することが実現するよう最大の努力はするし、希望がいつか叶うことを信じているけれど、それがうまくいかなくてもプランB(代わりのプラン)があるから大丈夫。また希望に向けて挑戦し続ければいい。」という感じだそうです。西ヨーロッパだと、最悪の場合に備えてプランBというよりは、プランA(望み通り)、B(望み通りではないけど近い), C(OKレベル), D(最悪の場合)といくつかあって、最悪の場合への力の入れ方は最小かな、という気がします。
私たちは生まれつき自由なわけではなく、子供のころは、たまたま生まれ落ちたところの両親・親戚、地域、国の文化や慣習に無意識・意識的に大きく影響を受けます。
大人になれば、それらの影響から離れ、自分にとってポジティブなものを選びとり、ネガティブなものは手放し、自分の望む人生を選び、未来をつくっていく自由があります。
ただ、それには自分には自由があるということに気づくことと、自分の人生や未来に、自分が舵をもって進んでいくこと(同乗者ではなく、自分が車や船をDriveしている)と責任をもつ勇気がいります。
あなたは、楽観的・悲観的、どちらの人生を生きたいと思いますか?