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子供たち(10代後半も含む)が安全な環境で暮らすことの大切さと社会の責任

Yoko Marta
18.08.22 03:10 PM Comment(s)

子供たち(10代後半も含む)が安全な環境で暮らすことの大切さと社会の責任

イギリスの国営放送BBC Radio 4で定期的に聞いている番組の一つは「The Life Scientific (科学な人生)」です。
最先端の研究をしている科学者に、彼らの研究や仕事、なぜ彼らがその分野に興味を持ったのか、子供自体のこと等を、いろんな角度から、自分自身も物理学者であるジムさんが対談を進めていきます。
興味深い対談はたくさんあるのですが、そのうちの一つ、Forensic Psychotherapist(法医学精神分析医)のGwen Adshed(グゥェン・アドシェッド)さんより。
グゥェンさんは、長年にわたって、殺人等の重大な犯罪を行い、「本人と他の人々に危険を及ぼす危険性がある」として刑務所にいる人々の治療・カウンセリングをイギリスで行っています。
数十年前は、殺人を犯すような人々は、既に狂っていて(=普通の人々ではない)、カウンセリングやセラピーの効果は見られない、と決めつけられていたようですが、現在では、有効だと証明されています。
グゥェンさんは特に家族間での殺人加害者を扱っています。
日本ほど家族間の殺人率は高くないのですが、ヨーロッパでも殺人が起こるのは、全く知らない人々の間ではなく、家族や知人といった何らかのつながりがある場合が多いとのことでした。
どの国でもそうですが、加害者の多くは男性だそうです。
彼らの多くは、子供時代に深刻な虐待(親や保護者からの身体的・心理的暴力、ネグレクト等)を受けていて、子供の頃の保護者とのアタッチメント(愛情によるつながり)がうまく形成できておらず、「恐れ」のセンサーが過敏なことも多く、恐れをContain(健全に閉じ込める)ことができず、極端な行動に走り勝ちだということです。
人間は生まれてから5年ぐらいの間に、親・保護者との関わりから、どうやって「恐れ」を扱う・Containする(健全に閉じ込める)ことを学びます。
小さい子供には、転んだ時に「痛い」という未経験な怖いことがいつまで続くのかということも分かりません。そこで、親・保護者が子供をなぐさめ、言葉で「この痛みはすぐすぐ消える、安心して」と声をかけるといった自分の「恐れ」を受け止めてくれる経験を繰り返すことで、「恐れ」に対する健康的な判断と対処を学び、親・保護者・社会への信用を育んでいきます。
でも、例えば、家庭内暴力がひどく、母親も自分も常に父親に殴られているような家庭では、母親は子供の「恐れ」を受け止めるような余裕はなく、逆に自分の「恐れ」を無意識に子供に投影してしまうかもしれません。こうなると、子供は「恐れ」に押しつぶされ混乱し、また親・保護者・社会との健康な信用関係も築けず、常に強い恐れや不安感を抱え、ちょっとしたことで極端な反応をしてしまうことも、想像に難くありません。
もし何もサポートがなければ、彼ら/彼女らは、人間関係に関する感情やムード、気持ちの高まり等をどのように調整していいか分からず、問題を起こしやすくなります。
ただ、こういった親・保護者との不安定な関係性にあった人々の中でも、殺人といった極端な行動を起こす人々はごく一握りです。
また、人々が一般的に思っていることと反して、殺人や虐待を実行した人々の多くは、普通の市民とほぼ変わらない善悪の判断や倫理観をもっているそうです。
それでは、一部の人々を極端な行動へ走らせるものは何なのでしょう?

グウェンさんは、殺人や虐待という極端な行動に及んだ人々には、「自分の行動を正当化するナラティブ(物語)」というプロセスが存在しているとしていました。
自分の行動を正当化するナラティブ(物語)の中では、被害者の立場・気持ちを理解しようとする共感が完全に欠落しているそうです。
被害者への共感を呼び起こし、加害者が行ったことがどう被害者や被害者の家族・友人、社会に影響を与えたのかを、加害者自身が気づき、本当の意味で反省・後悔し、考え方・行動を変えていくことが鍵だとしていました。
ヨーロッパは、全般的に「基本的人権」の概念や「Forgiveness(赦し)」という観念を強くもっているので、死刑は存在しません。
それでも、少数派の人々が、犯罪を犯した人々に税金を使ってセラピーや治療を行うのは間違っているのではないか、そういった人々は一生刑務所にいるべきではないか、という意見を述べたりもしていますが、グウェンさんは、そういう気持ちも分からなくはないが、違った見方が必要だとしています。
加害者の中には、若い人々もたくさんいます。
彼らの犯罪には言い訳はできませんが、社会が彼ら/彼女らが幼かったときに、適正な環境を与えられなかったのは事実であり、社会の責任でもあります。
もし、自分が彼ら/彼女らのような環境で子供時代を過ごしたらどうなっていただろう、という彼らの立場になって考えて想像してみる(共感)することも大切です。 
彼らには、別のチャンスを与えられる権利があり、また、彼ら/彼女らが社会に戻ったとき、親となったときに、彼ら/彼女らの子供たちが安全な環境で育てるよう適切なサポートするのは、社会の義務でもあり、結果的に社会も良い結果を共有できることとなります。
プロフェッショナルで長年経験を積んだイギリス人のアートセラピストの助手として、ボランティアでグループセラピーに半年ほど参加しましたが、子供のころの経験が、いかにその後の人生に影響を及ぼすのかということは、身にしみて感じました。
これは、地球上のどこで育っても同じです。
と同時に、人々のレジリエンスや強さ、優しさが砂漠のような場所からでもわきあがることに驚きと喜びを感じました。

日本にだけ住んでいると見えづらいと思いますが、日本がいかに他人・他グループと見なした人々(=社会全体)に無関心で、かつ、「普通」とされる枠組から、たまたまこぼれ落ちた人々や弱い立場に追いやられた人々(身体的・精神的な病気/貧困に陥った/暴力を受けている/(経済的・身体的・精神的・性的・労働)搾取されている/いわゆる主流の考え方や行動に従わない・従えない)に対して冷たい社会かは、ヨーロッパに長く住むと見えてきます。
これらの弱い立場に追いやられ、基本的人権も尊重されず人間としての尊厳を奪われた人々の怒りや悲しみを、私たちみんなの社会問題として正面から向き合い、解決していかなければ、どこかで爆発するのも、時間の問題でしょう。
日本だけでなく、世界中でこの弱い立場に置かれている人々の層は増え続けています。
これは、個人の問題ではなく、経済や政治のシステムから起こっているシステム的な問題であり、解決可能な問題です。

ヨーロッパと比べて日本が際立つ点は、子供の安全性の低さです。
これは、子供が一人でおつかいにいける、一人で電車に乗れるといった単純なことを指しているわけではありません。
子供への暴力について一般市民の許容度が高い(=躾という名を騙った暴力や、軽くても頭を叩いたり蹴ったりすることが日常化している、言葉での暴力(簡単に「死ね」や「存在する意味がない」といったことを言う))こと、心中という概念とその罪状の軽さ(ヨーロッパには「心中」という概念は存在せず、殺人として扱われる。子供は親の所有物ではなく、一人の尊厳をもった人間と理解されている)、子供を性的対象として見ることが一般の人々の間で当たり前となっている(例/JKビジネスや、中高生とのデートのために金品の受け渡しや、偽の愛情を使って子供たちを操作ー大人側が自分の強い立場を悪用して子供を搾取。大人が100パーセント悪く子供たちに非はない)等、これらが子供にとって安全で健全な社会であるとはいえないでしょう。
ヨーロッパでは、子供たち(10代後半も含む)は、社会や大人が守らないといけない存在だと考えられていて、子供たち(10代後半も含む)とデートしたいと思うような大人はまずいないし、そういう欲望がある人々はカウンセリングを受けることを勧められるし、子供・社会にとって危険を及ぼす可能性があるとして認識されるでしょう。
大人にとっての健全な人間関係・恋愛関係とは、上下関係や支配・被支配の関係がなく対等で、どちらもが成熟した大人であり、自分の思いや意見を明瞭に言語化でき、お互いが対等に意見がいえ、気軽にNoと言うことができ、意見が違えば話し合い、どちらもが納得の上で交渉・譲歩して決定していける関係です。

これらの子供への暴力や搾取にも、多くの「正当化」が使われていることにも気づく必要があります。
「正当化」の際に起こっているのは、社会的な弱者である子供たちの非人間化です。
子供たちの痛みはなかったことにされ、子供たちのせいにされることすらあります。
これは、社会的・文化的に刷り込まれたものです。
特に、子供の搾取については、完全に大人側が悪いにも関わらず、警察が大人たちを取り締まるのではなく、子供たちを取り締まる(補導する)というのは、「子供の安全を守る」ということが軽視され、大人の欲望が優先されていることを示しているでしょう。
これは、ヨーロッパでは考えられないし、どう考えてもおかしく、警察が取り締まるべきは、子供を搾取する大人でしょう。
ヨーロッパでは、「子供は叩かないと理解できない」という考え方は存在しないし、考えてみると論理的でないことは明らかでしょう。
叩かれた子供が学ぶのは、「フラストレーションを感じたときには、フラストレーションを晴らすために自分より弱い立場にいる人々を叩けばいい」ということです。
これが明確に言語化されて「親が子供を叩くのは親のフラストレーションを晴らしているだけで、完全に間違っている。ただ、親や保護者の立場にいる人々の中には、親や保護者としての最低限のスタンダードを満たせない人々もいる。自分は運悪くそういう人々に当たっただけだ」と理解されれば、虐待の連鎖は起きないでしょうが、ここで「親が暴力をふるうのは愛情の証/暴力をふるっている親のほうが辛い(悪いのは子供。暴力をふられて当然)」と正当化すると、この子供たちが成長して親になったときに、子供に対して暴力をふるう可能性は非常に高くなるでしょう。
また、暴力を振るわれている側が、「暴力を振るわれるのは愛情だ/自分が悪い」と刷り込まれれば、暴力を振るわれ続けても暴力だとは認識せず、逃げることを考えつかず、本人だけでなく、子供や他の人まで危険に陥れる可能性が高まるでしょう。
その社会としての土台がある上に、たまたま運悪く病気を患ったり失職したりして、社会やコミュニティーから適切なサポートも受けられない場合は、フラストレーションが高まり、子供への暴力がエスカレートする可能性も十分考えられるし、彼らのパートナーは暴力が当たり前になっていて、自分に対する暴力も子供に対する暴力も受入れてしまい、一番弱い立場にいる子供たちが犠牲になる可能性は非常に高まるでしょう。
これは仕方ないことではなく、止められることであり、止めなくてはなりません。
今まで当たり前と思っていた/思わされていたことは、非常に害があり、間違っていることかもしれません。
一歩下がって、観察して言語化・考える必要があります。

また、この社会全体の子供への暴力の許容度の高さは、多くのハラスメントにもつながっています。
会社で上司から悪く扱われた男性が、フラストレーションを晴らすために(明確にそう意識していないとしても)妻を叩いたり、言葉で痛めつけたりし、妻のフラストレーションはさらに弱い立場の子供に向けられ、この子供が自分の弟妹や学校で他の子供をいじめたりするのは、残念ながらよくあることでしょう。
また、セクシャルハラスメントや痴漢、人種差別やヘイトクライムにしても、結局はフラストレーションを晴らすため(自分の無力感を克服して強いと感じたい、誰かを支配したい)という欲求が大きな原因とされています。
子供のころから、「自分のフラストレーションを晴らすために、自分より弱い立場の人には何をしてもいいし、それについて責任をとる必要もなければ、責任を問われることもない」と学んだ人々がある程度の数で存在すれば、学校でのいじめ、会社でのモラルハラスメントや暴力、セクシャルハラスメントがいつまでも無くならないことに不思議はないでしょう。

社会の誰もが一緒に生きている仲間であり、どんな状況に今あったとしても、人として対等であり、自分を含めて誰もが基本的な人権や尊厳を大切にされるべき貴重な存在だと気づいて行動を起こしていけば、社会は誰にとっても安全で住みやすい場所となるでしょう。
社会は、私たち一人一人がつくっているものであり、未来は変えることが可能です。

Yoko Marta