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No Bears (熊はいない) ーイラン映画

Yoko Marta
28.11.22 05:48 PM Comment(s)

No Bears (熊はいない) イラン映画 パナヒ監督

イランのパナヒ監督の最新映画「No Bears (熊はいない)」がロンドンの映画館でも公開されました。

個人的には、ロンドンにきてから、アフガニスタンでのタリバンの抑圧が原因で子供の頃家族でイランに亡命した友人がいたり、ロンドンの大学ではイランの政治状況に憂慮してフランスへ家族で亡命した他の専攻のイラン人の知合い等がいて、イランも身近に感じます。
彼らと話していると、文化的には、日本とイランのような中東は、家族やコミュニティーのしばりつけの強さ(場合によっては、家族やコミュニティーで助け合う絆の強さともいえる)や、女性への抑圧等、ヨーロッパよりも似ているところがたくさんあるように思います。
コミュニティーの暗黙の決まりを破ると、自分だけでなく家族や親戚も誹りや罰を受ける、という感覚もヨーロピアンには分かってもらいにくいですが、中東やアジアで育った人々にはすぐ分かってもらえます。

パナヒ監督は自宅軟禁の10年ぐらいを送っている間にも映画を撮影していたものの、現在は、またしてもこじつけの「国家に対するプロパガンダを行った」という罪で、6年の有罪を宣告され、牢獄へ入れられています。

この映画は、トルコとの国境近くのイラン国内の田舎でパナヒ監督が指示を行い、トルコ国内でアシスタントダイレクターが実際の撮影を行っているという設定で話が進みます。

現実と虚構の境が曖昧になるのも絶妙です。

題名の「No bears (熊はいない)」は、映画の中のパナヒ監督が、迷信深く、猜疑心の強い村人たちの騒動に巻き込まれ、実際には存在しない写真をめぐって写真がないことを「Confession(罪の告白/真実の告白)」を行うように説得されます。
パナヒ監督は、村の写真や子供たちの写真を気ままにとっていた時に、この村の若い男女が一緒にいた写真を撮った可能性があると、村の子供が証言したことから始まります。この若い男女のうち、女性は、村の他の男性と婚約させられましたが、最近首都テヘランの大学に行ったものの、プロテストに参加したことが原因で退学させられ、村に帰ってきた若者と愛し合っていました。その愛し合った二人がこっそりと会っていたことが公に認められると、「名誉」等の大きな問題となります。この愛し合っている二人は、村にいる限り未来はないので、近いうちに国境を越えてトルコに行くことを計画しています。

その村のConfession(罪の告白/真実の告白)を行う特別な場所へ向かう際に、村人に会います。その村人は、「熊が出るから、一緒に行かないと危ない」と言い、「まず一緒にお茶を飲んでから一緒に行こう」とお茶を飲む場で話します。
そこで、この村人は、「別に嘘をついたっていいんだ。もしこの村の平和が守られるという目的なら(=写真が実際に存在するかなんてどうでもいいけど、写真がないという主張は守ってくれ)」といい、「神の前で真実をいう」という特別な村の儀式を、この村人も別に信じていないことを明らかにします。
その後、山の中のConfession(罪の告白/真実の告白)の場所に向かう際に、分かれ道で、村人は、「きみは左にいって。一緒に行くと勘繰られるから、僕は右の道から行くから」と言われ、パナヒ監督が「熊が出て危ないんじゃないの?」と聞くと「熊なんていない」とはっきりと言われます。
村人は、「熊が出るというのは、ただ村人を怖がらせるための迷信」と言い放ち、「都会の人々(=パナヒ監督)は権威(政府や中央政治家)と問題があり、田舎の人々は迷信に問題がある」と続けます。
村人は続けて言います。
「物語(伝説や神話、村の言い伝え等)は、私たちを怖がらせる(恐れさせるために)作り上げられたもの。私たちの恐れは、他の人々に力を与える」

ここで出てくる「熊」は、権力者が、社会(国)全体を、自分の支配やコントロール下に置き、その状態を続ける為に使うツール(物語や神話といった作り話)の象徴です。
実際に熊をその山中で見た人もいなければ見たこともないのに、多くの村人たちは、そこに熊がいると信じ、やむを得ない事情がない限り決して近寄りません。
「存在しない熊(恐れー権力者に力を持たせ続けるもの)」も、多くの人々が信じ、そのように行動すれば真実となります。実際には、作り出された幻影でしかありませんが、権力者に抵抗したり、真実を述べたりする人々を、市民間、個人の中で抑圧するよう仕向けます。

これは、現在、イランや中国でも起こっている若者を中心としたプロテストによく表れているのではないでしょうか?

ある程度年を取った人々は、小さいうちから、どんなに権威者が悪いことをしても、権威者への反抗・抵抗は社会的な「死」から実際の「死」にまでわたるまでの深刻な結果を必ず生むと無意識に信じ込まされています。
自分(内在的)や自分の周りにセンサーシップを行い言動を制限して暮らしています。
権力者がどんなに悪いことを隣村の人々や他の人々に行ったとしても、息をひそめ、自分や自分の周りの親戚が頭を低くし続けていれば、なんとか自分たちだけは、その「運の悪さ」を避けて生き延びれるのではないか、と期待しています。
市民や村人がお互いに監視しあって抑圧しあい、権力者への抵抗や真実を言うことを避けるのは、権力者にとっては、とても都合の良いことです。
どんなに悪いことをしても責任を問われることもなければ、責任を取る必要すらありません。権力者の振る舞いは、どんどん悪くなる一方でしょう。

最近、聞いたPodcast(ポッドキャスト)の中で、とても興味深かったものの一つは、Financial TimesのXi Jinping (英語だとシー・ジンピン、周 近平首相)の子供時代から政治的にどう階段を駆け上ってきたかをたどる「 The Prince 」ですが、この中で、周氏に反対する中国のアクティヴィストが言っていたことが印象的でした。
内容は、大まかに「抑圧は厳しく長く続いていて、人々は常に腰を曲げ頭を下げ続けている姿勢を、「まっすぐ立っている」と認識している。そこに、自分のように頭を上げて「まっすぐ立っている」人を見ると、人々は彼らを抑圧している権威者ではなく、彼らの置かれている現実・真実を見させる自分を憎み攻撃する」というものでした。

これは、日本も似たような状況ではないかと感じます。
ただ、大きな違いは、中国やイランでは、実際に権威者に少しでも抵抗したり、真実を言うと、実際に裁判なしで牢獄へ無期限で閉じ込められたり、最悪の場合には殺されることもあるという現実です。

日本で過ごしているときは、家庭・学校・職場といった小さな場所ですら、とにかく権威者には抵抗・反抗しない、真実は言わないようにと徹底的に抑圧されました。これらのルールを破ると「とんでもないことが起こる。自分だけでなく、家族や親戚や周りの人々にも」というとても曖昧な脅しを受け続けましたが、このおかげで得をしているのは誰でしょうか?
ハラスメントやいじめの加害者や、悪い行動を取る社会・政治の権力者たちは、誰にも責任を問われず責任を取る必要性すらなく、加害や悪い行動はエスカレートするのみでしょう。悪い行動に対しては、明確に「No」をつきつける必要があります。
日本は、他の独裁的な国とは違って、言論の自由があり、民主主義・法律もある程度は機能しています。
私自身の経験では、権威者の悪い行動に対して明らかな「No」を突きつけたときは、権威者やその取り巻きだけでなく、「権威者にはどんなことをされても頭を下げ続け笑顔で受け入れなくてはならない」という神話を信じ込んでいる人々からもバックラッシュがあり、一時的には難しい状況には陥っても、結果的には良い方向に向かいました。
また、自分のモラルや気持ちを抑圧し続ければ、結局は自分自身を失います。
あなたが何を恐れているのか、どこからその恐れがきているのか、その恐れは作り話で実際には存在しないものではないのかを知ることは大切です。
「伝統」「今までそうだったから」という、抑圧することばに騙される必要はありません。どんな「伝統」だって、どこかで作り上げられた、作り話にしか過ぎません。多くの人々がそれに気づいて、盲目的に信じるのをやめれば、それ(多くの人々を苦しめているシステム)は崩壊します。もともと、作り話だったのですから。

現在の若い人々は、「共にある未来」をみています。
自分の親や祖父母が生きてきた抑圧された自由のない社会に生きることを受け入れないし、古い世代が信じ込まされていた作り物の「物語・神話」も信じません。
実際、イランがヒジャブや女性たちへの締め付けを非常に厳格にしたのは、1979年のイスラム革命後で、革命前の15年くらいは近代化政策が実施され、西欧寄りの自由な時代も経験しています。

イランのプロテストでは、男性の多くが女性をサポートしています。
Guardian Newspaperでは、多くの記事やイランのプロテストに参加している若者とのインタビューも放映されていまが、男性も、これは自分たち全員の未来への闘いであると言っていました。
最初は、ヒジャブ(女性にだけ着用が強制される)が問題でしたが、今は、民主主義・言論の自由、より良い未来を求めるプロテストともなっています。

決められた未来なんてありません。
変えることが難しいこともありますが、絶対に不可能なわけではありません。
たまたま平和で自由を享受できる幸運な立場にいる人々には、不正義に立ち上がった人々をサポートし、私たちの自由を有効に効果的に使う義務があります。
それは、自分の身近で起こっていることにもいえることです。

まやかしの「恐れ」は、盲目的に、作り話を信じることを止めれば、霧のように消え、勇気や希望が見えてきます。

Yoko Marta