2022年度Reith Lecturesよりー4つの自由

Yoko Marta
09.12.22 06:47 PM Comment(s)

言論の自由

イギリスの国営放送BBCでは、毎年一回、Reith Lectures(リース・レクチャーズ)と呼ばれるシリーズで、その時代をリードする哲学者、歴史家、芸術家等、さまざまな分野の専門家が数回にわたる講義を行います。1948年から続いているシリーズで、当時のBBCのダイレクター、Reith(リース)氏が、「ブロードキャスティング(放送)は、国民の知的・文化的生活を豊かにすることを目的とした公共サービスであるべきだ」という信念に基づき、現代の人々が直面している課題について、国民の理解を深め、議論を進めることを目的に、該当分野での第一人者を招いて、一般聴衆を前に講義を行います。イギリスらしく、一般聴衆からの質疑応答にもかなりの時間を割きます。


今年(2022年度)は、今までの一人が4つの講義を行う形式とは違い、4人の思想家が、「4つの自由」について語ります。4つの自由とは、「freedom of speech(言論の自由)」「freedom of worship (信仰の自由)」「freedom of want (欲望からの自由)」「freedom from fear (恐れからの自由)」です。
この「4つの自由」とは、アメリカが第二次世界大戦に参戦することとなった約一か月前に、Franklin D Roosvelt(ルーズベルト大統領)行った演説にちなんだ名称です。彼は、この「4つの自由」を「基礎的な民主主義の柱」と呼びました。この演説から80年以上たった今、これらの「自由」とは何を意味するのでしょうか?

初回は、「Freedom of speech(言論の自由)」で、ナイジェリア出身の小説家、Chimamanda Ngozi Adichie (チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)さんが行いました。 ここ から聴くことができます。
※直訳ではなく、この講義を聴いたうえでの感想や、興味深かったことについて記述しています。

チママンダさんの著作は日本語にも翻訳されているようなので、知っている人も多いかもしれません。彼女の英語は、ナイジェリア訛りの暖かい響きで、ユーモアを交えながらも、鋭い考察を繰り広げます。また、ソーシャルメディアでの批判や攻撃するような意見をどう扱うかについても「誰もが自分の皮膚を固くして、ワニのようになればいい(批判が全く身にこたえなくなる)という考え方は信じない。」とはっきりと言っていて、チママンダさん自身はアシスタントと信頼できる友人に、自分が気になりそうなポストがあれば教えて、ということにしていて自分では見ないそうです。聴衆とのやりとりも、とても楽しく、明瞭な答え(ときには、「美しく質問の内容を描写してくれてありがとう、私も同じように美しい答えをもっていると言いたいところだけど、答えはもっていない」という場合もあります)にお腹を抱えて笑いながらも、深く考えさせられます。これは、日本語に訳されても、伝わらない部分だと思います。ぜひ、英語で聞くことをお勧めします。

いくつか興味深かった点を。

聴衆の中からいくつか質問が出ます。「真実はSubjective(主観的)で、他の人の真実が、私の真実とは違って、彼らは自分の真実は絶対に正しいと信じているけど、それは私の存在を否定し、傷つけるときもある。例えば、女性は男性より劣っている、トランスは存在しない等。作家の中には、トランスは存在すべきではないとする人すらいる。」この質問に対しては、チママンダさんは、まず、この質問のreframing (リフレーミング/再構築)を行います。
彼女はまず、「真実は主観的である」という前提に不賛成だとします。「挙げられた例の2つはどちらも真実じゃない。女性は男性より劣っていないし、トランスは存在する」
真実が主観的なのではなく、意見は主観的
この聴衆からでた2つの例は、どちらも意見でしかありません。
また、ここで重要なポイントとしてチママンダさんが指摘したのは、ソーシャルメディアだと、私たちは極端な方向に受け取ってしまう可能性が高いということです。
チママンダさんの友人には「スポーツは従来の女性・男性の2つの区分けで、Gender identity basedにはなってほしくない」という人もいます。そうすると「トランスは存在しないってことなのね/トランスは死ねというのね」と極端にとる人々も出てきますが、この友人にはトランスの友人もいるし、トランスが存在することも知っていれば、トランスに死んでほしいとも全く思っていません。この友人が言っているのは、スポーツに関しては、ある特定のポジションを取るという意見で、シンプルな話です。誰かが(ソーシャルメディアで)言ったことを不正確に誇張したりするのは、相互理解を助けません。誰もが、極端な考え方に陥らないよう、自分をよく観察し、注意する必要があります。
ソーシャルメディアはReal(現実)ではありませんが、実際に現実の世界(私たちの気持ちや実際の生活や友情)に影響を及ぼすことが難しいところです。

言論の自由については、理論に基づくだけの社会では、なんでも言っていいということになるけれど、彼女は、この世界は天使ばかりではないし、ある程度の規制は、社会で人間たちが平和にくらしていくためには必要だと認めています。ただ、それは最低限である必要があります。国際的なものとしては、「Incitement of violence (暴力の扇動/誘発)」は、他の多くの人々の安全を脅かすものとして禁止されています。第二次世界大戦の後に、旧ソビエト連邦は「Incitement of hatered(憎悪の扇動/誘発)」も禁止しようと提案したそうですが、それは却下されたそうです。なぜなら、この「憎悪」の解釈は幅広く、独裁者に反対を表明するようことにも適用される可能性が十分にあるからです。「誰」がどうことばを「解釈」し、「定義」「監視」するのかは、とても大事なポイントです。「Bad Speech(悪いスピーチ)には、もっとたくさんのスピーチで対抗する」という意見も、もっともなように聞こえますが、チママンダさんは、権力がどう働いているかをよく観察する必要がある、としています。より多くのメディア(新聞やソーシャルメディア等)は、とても少数の億万長者たちによって所有され、力のない大多数の人々は、これらに対してAnswer back(言い返す)力を持っていない場合がほとんどです。
また、ソーシャルメディアでは、不透明なアルゴリズムによって、煽情的で極端な少数派の意見が、まるで真実で多数派であるかのようなまやかしも作り出します。これらに対しても、多くの人々がこのまやかしを信じれば、これは真実であるかのような輝きを持ち始め、さらに多くの人々が騙されます。私たち市民は、知識をしっかりつけ、このまやかしに気づき、真実で言い返し、メッキをはがす必要があります。ソーシャルメディアは、Powerless(力のない人々)にも力を与えましたが、Powerful(権力や財力ある人々)がこの世界をコントロールしているのも事実です。

私が好きなエピソードは、以下です。
チママンダさんは毎夏、生徒たちに書き方ワークショップをナイジェリアで開催しているそうです。ここは「安全な場所(=誰もが対等な声をもっている)」という姿勢を貫いています。ある日、男子生徒が女性を卑下するような文章を書き、それに対して、一人の女子生徒が大きな声で抗議をしたそうです。チママンダさんは、誰もが対等な声をもっているから、という理由で、男子生徒に最後まで皆の前で読むことを促します。女子生徒は、「あなたは私の味方のはずなのに」ということで一時的に不満だったそうですが、チママンダさんの目的はもっと大きいところにあります。彼女だって、この男子生徒の見方には賛成できません。でも、途中でさえぎって彼の書いたことを聞く機会を奪えば、彼はきっと「僕は、途中で(女子に)止められて最後まで話せなかった。これは、僕の言っていることが正しいから、彼女たちは真実に耐えきれず、僕を無理やりストップさせたんだ」ということになり、彼は殉教者ということになります。殉教者には誰も勝てません。大事なのは、彼に最後まで話す機会を与え、彼が何を言わんとしているのかをよく理解し、涼しい顔で、効果的に彼の論理(女性蔑視)を破壊することです。チママンダさんが、そうしている姿が想像できて、思わず笑ってしまいました。

最近では、「悪魔の詩」を書いたサルマン・ラシュディさんが刺され、重傷を負いました。他の言語への翻訳者も過去には刺され、日本人翻訳者は残念ながら殺され、今も犯人は分かっていません。今現在、こういった注意を要する話題について、小説を書く人はいるでしょうか?恐らく、自分で自分を検閲して、誰も書かないでしょう。小説や書いたことに対しての身体的な暴力は絶対に許されることではありません。同時に、チママンダさんは、言葉が人を深く傷つけることがあることもよく理解しています。でも、スピーチを監視して、「寛容を作り出す(=誰かを傷つける可能性があるスピーチは沈黙させる)」という方向に行くと、矛盾を作り出します。なぜなら、真の寛容さとは、よく理解するというところからきており、理解はよく聞くことからきており、聞くためには、まずスピーチがあるということが前提となります。
もう一つの大事な点は、「寛容さを作り出すための監視」は、傷ついた人々は抵抗・応戦することができないという前提で降伏していることですが、これは、事実ではありません。アリゾナ州大学で、黒人を攻撃するポスターが貼られたとき、大学側は犯人を退学させるのではなく、多くの生徒たちで話し合うフォーラムを企画・実行しました。そこでは、大多数の生徒がこの黒人を攻撃するポスターに強い反対を表明し、このフォーラムを企画した黒人の生徒の一人は、「人種差別を揺り動かす機会があり、実際に(正しい方向に)揺り動かしたとき、また次の機会に同じことをすることにもっと自信がもてる」と言っていたそうです。

この世界には、ロシア、中国、イランのように、体制側に少しの不満や反対を示しただけでも長期間裁判なしで牢獄に入れられたり、最悪の場合は殺されたりする場合もありますが、ここでは、アメリカやヨーロッパのように民主主義がある程度満足に機能している国々のことを話しています。
アメリカやヨーロッパのような場所では、「言論の自由」への危険は、政治や法律ではなく、「社会」です。「社会的な監視」は恐れの風潮を作り出すだけでなく、この恐れを認めることにすら抵抗を示すようになります。私たちは生身の人間なので、暴徒を恐れますが、もし私がつるし上げにあったとき、隣人や周りの人々がそれに対して沈黙していないと確信しているとき、私は暴徒を恐れないでしょう。暴徒は私たち一人一人なのです。

チママンダさんは、私たち全員が、Moral Courage(道徳的勇気)をもって、「言論の自由」を支えることを呼びかけています。

悪い行動(トロール/荒らし)をする人がいるからといって、誠意をもった議論が死んだわけではありません。大多数の人々は、誠意をもった議論をする人々です。
敬意をもって事実に基づいて自分の意見を述べることを再び始める必要があります。また、真実だけでなく、ニュアンスも大切です。どんな社会正義のための議論も、ニュアンスがあればさらい強く自信をもったものとなります。なぜなら、誰かを信じさせるために無理やり単純化する必要性を感じさせないからです。
この「単純化」については、チママンダさんは、近年(文字や本を)読めない人が増えてきた(=複雑な思考や状況を理解しない、したくない)のではないか、と言っていました。この世界は複雑でそれに耐えきれず、自分で考えることを放棄して、誰かの言う複雑さを無視した単純化された「二分化」をなんの批判もなしに受け入れるのは危険だとしています。確かに考える必要がなくてラクかもしれませんが、自由や真実からはどんどん遠ざかるでしょう。
また、居心地の悪いことを避けないことも大事です。人種差別の歴史は、多くのアメリカ人にとって気分のいい話ではありませんが、事実であり、収入や社会の不公平の元となっており、今のアメリカという国を形成しています。
また、私たちは、誰もが何でも知っている、或いは知っているべきと当然に思うことをやめなければなりません。あるとき、アメリカのジャーナリストが何か人種差別的なことを言ったということで解雇されましが、実際に何が言われたのかは明らかにされず、これはジャーナリストに働かずして得た「力」を与え、彼女が言ったことには真実が含まれていたのではないかという暗い憶測まで飛び交いました。市民は、実際に何が言われたのかを知る権利があり、何が学べたのか、或いは代わりに何を言うべきだったのかを考える機会が必要です。
私たちは、ソーシャルメディアでも、実際の(本当の)生活の中で行うような良い行動を取ることを要求しなくてはなりません
チママンダさんは、ナイーヴなアイディアであることは理解しながらも、様々な分野の、影響力を持った人たちや、意見を形成する人々、政治や文化的なリーダー、エディター、インフルエンサーたちが、広義的なルールを決めてはどうかとしています。A coalition of reasonable(道理をわきまえた人々の連合)が、極端な意見を自動的にモデレートしてはどうか、と提案しています。危機が訪れた時、ナイーヴなアイディアも現実的になることがあります。

社会的な監視は、今日の私たちの危機です。イギリスの作家、George Orwell(ジョージ・オーウェル)は、「もし多くの人々が言論の自由に興味を持ったなら、法律が禁止しても、言論の自由は存在するだろう」と記述しました。チママンダさんは、それに加えて「私たちは未来を守れる。私たちに必要なのは、道徳的な勇気です」としています。