The Green Catalyst
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accountabilityとは

Yoko Marta
12.04.23 04:08 PM Comment(s)

accountabilityとは - 責任を取るということ

残念ながら、イギリスでは少年同士の間でのナイフ殺人や殺人未遂が後を絶ちません。

そこには、犯罪組織やギャングの問題とともに、現保守党政府が福祉政策への資金を大きく削った結果、子供たちが安全に集まれるYouth Clubが無くなったり、機能不全や暴力のある家庭へいる子供たちを助けるSocial Serciceもうまく機能できない状況が続いていることも挙げられます。

最近、19歳の少年が、当時16歳の他の少年を刺殺した罪で終身刑(最低21年は牢獄)の判決を下されました。
昨年の夏に起こった事件ですが、この加害者の少年の母が警察に電話したときの記録も公開されました。
BBCの記事は ここ より。

場所はイギリスの田舎町で、何かしらの事件が起こるとは思えなかった場所だそうです。
2つの少年グループは、もともと対立していて、たまたま駐車場でこの2グループが殴り合いの喧嘩になったところで、なぜか加害者の少年が車の中に置いてあったナイフを取りに戻り、亡くなった少年を数回刺したそうです。刺された少年の友人たちが救急車を呼びなんとか命を救おうとしている間、この加害者の少年は家に戻ります。
そこで、母親が気づき、すぐに警察に連絡しました。彼女の声からは苦悩・辛さもにじみ出ているように感じました。

(加害者の母)「私の息子が誰かを殺したようです。」
(999オペレーター)「どこで?」
(加害者の母)「〇〇のようです(殺された場所)」
(加害者の母)「息子はちょうど帰ってきたばかりで、それ(殺人)を今知ったばかりです。息子は今、私の家にいます。彼をどこにも行かせることはできません。」
(999オペレーター)「彼は、あなたが電話で(警察に)話していると知っているの?」
(加害者の母)「はい、彼はここにいます。私は息子に、私はこうしなければならない(警察に連絡しなければならない)と言いました。」

ここで、息子に代わり、息子が何が起こったかを999オペレーターに答えます。答えも混乱していて子供のようで(子供なんですが)、それでも誰かを殺してしまったという事実は変わりません。
裁判では、「相手グループがナイフを持っていて自分の友人を傷つけるのでは、と思ってナイフを持ち出した」と言ったそうですが、相手方グループは凶器は持っていなかったようです。
ただ、この「誰もがナイフを持っている」という恐怖は、ロンドンのような都市で、貧困地区でギャング犯罪が多い地域だと現実である場合もあります。

この母親が示しているのは、accountability(自分の行為や決定から生じた結果に対して責任をもった行動を取る)です。
罪を犯した息子を嘘で庇うのではなく、きちんと、自分が行ったことについて責任を取らせることです。

この母親に対しては、「難しい状況の中で、正しい行動を選択した」というようにポジティヴに受け止められています。

子供と言っても既に18歳を越えていて、母親とは全く違う人間で、彼の行動の責任は彼自身にあります。ただ、母親がその殺人を知ってしまった以上、知らないふりをするのではなく、彼にaccountability(アカウンタビリティー)を示し、責任を取らせる必要があります。

詳しいことは分かりませんが、この母親が、息子が殺人をしたからといって、縁を切るようなことは考えにくいです。
社会に再び帰ってくるときに、正しい行動を取れる人になるよう、投獄中もずっと支え続けることでしょう。これが「愛」であり、健康な関係ではないでしょうか。
嘘をついて庇ったり、殺人を犯した罪の責任を取らせないのは、愛ではありません

殺された少年は帰ってこれませんが、殺した側が公平に法によって裁かれ、適切な罪状を渡されれば、少なくとも正義は行われ、Closure(閉じること)を迎えることがいつかはできるでしょう。
もし、この殺害を行った少年の母や他の人々がお互いをかばいあい嘘をつき続け、誰が殺したのか分からない状況だと、殺された側には、何のClosureもなく、より辛く難しい状況を長い間続けざるを得なかったでしょう。

また、日本では分かりづらいかもしれませんが、犯罪は「個人に対する罪」ではなく、「社会に対しての罪」です。そのため、「誰かを殺した人は殺されるべき」といった考えや、その思想に基づく死刑も存在しません。
罪は、法律によってきちんと裁かれ、加害者は法律で定められた罰を受け、罪を反省し贖うことになります。罪はその人の行動に伴いますが、その人自身のBeingが犯罪によって一生消えない染みを残すということではありません。「ひとは変わることができる」というのは基本なので、きちんと罰を受けて罪を贖った後は、どう社会の良い一員となれるか、というところがポイントとなります。
最近でも、刑務所のオフィサーとして働いていた人が、さまざまな苦難にあった挙句に、刑務所内での麻薬売買の犯罪組織に関わり、数年を刑務所で過ごす判決を受け、刑務所で刑期を過ごしながら大学の犯罪学の修士コースを続け、現在は大学教授となった女性の話も、BBC Radio 4で聞きました。刑務所内の組織の人々(公務員)が、彼女の生い立ちや苦難も理解し、勉強を続けることを支えてくれたそうです。

罪を犯した人々が、法律によってきちんと裁かれ、正義が行われるような社会でなければ、社会は機能しません。
なぜなら、社会の基本的なルールや法律(誰もが安全に健康に生きていけるような暗黙のルールも含めて)が守られているという信用があってこそ、社会が成り立つからです。
機能していない社会では、権力や金力・社会的な力をもたない人々、特に子供や女性・移民たちは、危険な状態に追いやられる可能性が高くなります。

一人一人の行動がこの社会を作っています。

正しい行動を選ぶことは、誰にとっても大切であり、それが結局は社会を形作っています。

Yoko Marta