The Green Catalyst
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Pride Monthに寄せて

Yoko Marta
12.06.23 05:20 PM Comment(s)

Pride Monthに寄せて

ロンドンに住んでいると、さまざまな国籍、さまざまな場所や文化、宗教で育った人々と友人になったり、知り合いになることはごく普通です。

その中には、LGBTQの友人や知合いもいます。

6月は、Pride Monthとなっており、LGBTQに関した講演会や展覧会が多く開催されます。
LGBTQの友人や知り合いたちは、そうでない人たちと比べて、人間的に何かが違っているわけでも、間違っているわけでもありません。
私の友人や知り合いも、科学者や看護師、キャビンアテンダント等、仕事もさまざまであれば、国籍や育った文化もさまざまです。

ただ、一つ言えるのは、「Others(他の人々ーマジョリティーのグループに所属しない人)」として、marginalised(除外、無視される)されやすいことです。
私たち人間は、どんなに科学技術が進んだとしても、Relational (リレーショナル/関係性)をもとに生きています。
人間の脳の新しい部分は、言語や理論といった理性的な部分を扱っていますが、古い部分は瞬時に「Us(私たち)」と「Others(他の人々)」を分け、「Others」は、(限られたと思い込んでいる)資源を取りあう敵だと分類することもあります。
情報は脳の古い部分から新しい部分へと流れるため、恐怖が強かったり、新しい脳の部分で言語を処理する訓練が十分でないと、考える前(新しい脳で情報を処理する前)に、自分たちと違うと見なした人々、Others、を反射的にアタックする可能性もあります。
そのため、悲しいことに、LGBTQを含めたマジョリティーに所属しない人々は、日常的に危険やストレスにさらされることが多くなります。
また、危険を避けるために「自分がどうマジョリティーから見られているか/認識されているか」と注意深く観察しながら、自分の一部を隠し続けるのは、とても疲れるし、真に理解しあえる人間関係をつくることが難しくなります。

この古い脳の部分の、ほぼ自動的に「Us(私たち)」と「Others(他の人々)」を分ける基準は、個人が子供のころに育った環境に著しく左右されます。
子供の頃から、さまざまな人たちと同じコミュニティーで暮らしていれば、この「Us(私たち)」の枠はとても大きく広がります。
ただ、子供の頃に、とても狭いコミュニティーで、狭い価値観で育ったとしても、脳の新しい部分はずっと柔軟に変わり続けるので、本を読んだり、さまざまな人々と真に関わり合いをもつことで、自分のもっている「Us(私たち)」を意識的に広げることも可能です。
これは、本を読むだけでなく、実際に体験することが、とても大事な部分にはなると思います。
全然違う背景で育って、とても違った意見を持っていたとしても、お互いに知合う機会があれば、彼ら/彼女らの見方を彼らの側から見ることを可能にしてくれます。
彼ら・彼女らは、単純な枠組みに入れられるようなひとではなく、もっとニュアンスをもった人々だと認識できるようになります。
イギリス人はこうだ、フランス人はこうだ、と決めつけたがる人々もいますが、人間は、そんな単純なカテゴリーに入れられるようなものではありません。
これは、さまざまな見方や考え方を実感・体験として知るだけでなく、自分の世界を広げてくれるし、多くの人々に対して、自然とより共感的になります。「違う」ということは当たり前だし、それ自体に「いい」も「悪い」もありません。「違う」ことは、私たちすべてに豊かさをもたらしてくれます。

このPride Monthによせて、瞑想アプリケーションの「Head Space」で、自身もLGBTQの一人である、Dialectical Behaviour Therapy(DBT/弁証法心理学)の専門家、Jenna Glover (ジェンナ・グラバー)さんが、興味深いPodcastをしていました。
有料のようですが、Spotifyからは、 ここ より。
数話あるのですが、そのうちの一つ、「FAST」について。

F:Fair(フェア)自分にフェアに、他の人々にもフェアに。
A:Don't over-apologize (謝りすぎない)
S: Stick to our values (自分の価値観に忠実でいる)
T:Tell the truth (真実を言う)

自分にフェアに、他の人々にもフェアに。
ここで注意が必要なのは、英語のFairは日本語には恐らく存在しない概念です。「公平・公正」と訳されがちですが、日本語の意味で考えていると誤解が生じます。
ヨーロピアンの間で、フェアであることは非常に大切なことです。
でも、日本のように極端にハイラルキーが強く、立場が強い人々には絶対服従し、立場が弱いと見なした人々には何をしてもいい、といった考えが明示的・暗示的に存在している文化・社会では、このフェアネスという定義が想像・理解できず、しばしば、ヨーロピアン(北アメリカも)対 日本人で軋轢が生じるのをよく見ました。
小さな例でいえば、私のヨーロピアンの友人たちがフラットを探していた時に、日本人の知合いが偶然引越し予定で、かつ日本人以外とはフラットシェアをしたことがなくどうしてもヨーロピアンとフラットシェアしたいということで、引き合わせました。
でも、ヨーロピアンたちにとってこの日本人の彼女はフェアでない、ということで話はまとまりませんでした。
日本人側は、「私が年齢が一番上だから、私の言うことを聞くように。さまざまな人がいろいろ言い出したら話がまとまらないから、一番大きな部屋は私に、残りの小さめな部屋は残りでじゃんけんで決めるように。賃料はみんなで等分にする。」と言い渡したそうです。
ヨーロピアンたちは、普通は、納得いくまで徹底的に話し合います。
これは、民主主義の伝統にものっとっています。
また、人は対等で、誰が上で誰が下という考えはありません。
そのため、日本人側の「私が上」だから、「一方的に」言うことを聞くように、と決められるのは、Just(正当)でもなく、適切でもなく、彼女の召使のように扱われるのは不当だとなります。
そのため、フェアでないという発言になります。
ただ、だからといってお互いが嫌い合ったというわけではなく、ひととして良いところがたくさんあるというのはお互いに認めていて、でもフラットシェアは無理ね、という結論に達しただけです。
極端な話だと思うかもしれませんが、残念ながら、似たような例をたくさん見ました。
民主主義はさまざまな意見や人々を尊重しつつ、社会の誰もがなんとか平和に共存していける着地点を探そうと徹底的に話し合います。
権力者に絶対服従で、誰もが同じでなければならないという全体主義の傾向の強い日本文化でのみ育てば、民主主義的な話し合いが煩わしく感じられるのも分からなくはありません。
自分が強い立場にいられることがたまたま多ければ、自分が下だと見なした人々が「上」である自分に対して、たとえ正当な意見だったとしても、意見を言われること自体に強い拒否感を持つのも、賛成はしませんが、想像はできます。
社会的な立場や職業、性別、年齢等に関わらず、誰もが対等で、誰もが尊重し尊重される社会は、一度住んでみると、民主主義の煩わしい部分も含めて、人間らしく生きられる社会だと感じます。
フェアネスという定義には、必要性を基盤とした考えもあります。たくさん持っている人は、困っている人を助けるべきだ、という考えです。これは、社会の「お互いに対する義務を果たす」ということからきています。今、マジョリティーに属している人々が、明日はそのグループからこぼれ落ちるかもしれません。また、マジョリティーのグループが徐々にマイノリティー・グループとなる場合だってあります。
私たちは、助け合ってお互いに良い社会を築いていく義務があります。
日本文化のみで育ち、日本人だけと関わってきた場合は、ヨーロッパで暮らす場合には、特に、自分のバイアスに気づく必要があります。
自分にもフェアに、周りの人々にもフェアに。

謝りすぎない
これは、日本文化のみで育つと理解しにくいかもしれませんが、ヨーロッパでは、自分が悪いことをしていないのに謝ることはしません。ただし、悪いことをしたと認識した場合は、真摯にそれを認め、さっと謝り、それに対する対応をします。
日本のように、悪いことをしていないのに謝ったり、口先だけで謝って行動が伴わないのは、非常に不誠実だと見なされます
これは、日本を含むアジアの「他人からどう見られるか」が基準になっている文化と、ヨーロッパの「自分の中のモラルや規範に従い行動する」という違いかもしれません。
後者では、他人からどう見られようと、自分の中でのモラルに従い正しい行動を取れなかったとき、例えば、いじめられている人を助けられなかった等、は、自分が正しい行動を取れなかったことを自分に対して恥ずかしく思います。次からは自分の規範に基づいた行動が取れるよう最大限に努力します。
また、日本を含むアジアの場合、ハイラルキーが非常に強く、たまたま強い立場にいれば弱い立場にあるとみなした人々に何をしてもいい、かつ弱い立場にいると思わされた人々も、強い立場にある人々には何をされても抵抗できないという諦めが定着していて、謝り倒すことで強い立場の人々の気分をよくして不快な場面をやりすごすというパターンができあがっているのかもしれません。
ヨーロッパでは、人間は身分や職業といったものに関係なく、すべての人々は対等、という考えに基づいているので、アジアのような謝罪文化は存在しません。
ジェンナさんは、以下のように言っています。
「悪いことをしていないときには、謝らないで。もし悪いことをしたら、謝って、でも謝りすぎることはしないで。一言「ごめんなさい」と真摯に間違ったことを認め、前に進みましょう」

自分の価値観に忠実でいる
これも、日本文化で育つと非常に分かりにくい概念だと思います。
日本文化では、そのグループ内で力の強いと思われる人の意見に誰もが忖度し、同じことを言うのが「和を保つ」として、成熟した人の行動だと思われているかもしれません。
そして、同じ人が数分後に他のグループに加わり、そのグループで強いと見なされる人の意見が、前のグループの正反対だったとしたら、その正反対の意見に賛成を示すのが「和を保つ」ということになるのかもしれません。
また、一番大事なのは「全体の和(=往々にして権力者の言いなりになること)」であって、個人がその人なりの価値観を育むことを否定する人々も多いかもしれません。
でも、上記の言動は、ヨーロッパでは、とても不誠実だと見なされるし、自分自身の価値観を育んでいない・持っていない大人に対しては、「「ひと」として生きているのか?(息をして食べ物を食べているだけなら植物と同じ)」と判断される可能性も高いでしょう。
なぜなら、自分の価値観(倫理規範、原則、アイディア、言動の基準、モラル)は、ひととしての言動を導くガイドであり、それらは、「ひと」として生きていくのに欠かせないものだからです。
世界には、独裁者によって支配され、自由な意見が表明できない国々や地域も残念ながら数多く存在しますが、人々は「考える」自由を手放したわけではありません。
牢獄に閉じ込められた政治犯たちは、身体的には囚人であっても、彼らから考える自由を奪うことは、独裁者にすらできません。
自分で「考える」ことを放棄してしまえば、「ひと」であることを放棄したともいえるかもしれません。

ジェンナさんは、自尊心を保つためには、他の人々との関係性において、自分の価値観をガイド(導き手)として持っておくのは、不可欠なことだとしています。

真実を言う
これも、日本文化だけで育つと分かりにくいかもしれませんが、健康な人間関係を保つためには、とても重要です。
英語やイタリア語には、明確に内容を述べながら、柔らかく表現する方法が、条件法等で存在します。そのため、パーティーに誘われて行けない際にも、感謝しながら柔らかく、かつ明確に断ることが可能です。
また、人々は、Noを受け取ることにも慣れています
自分の感情を調整・管理する責任があるのは本人であって、立場が弱いと思わされた人々が、立場が強い人々に対して、始終機嫌を取るようなことは求められないし、ありえません。
ここには、日本やアジアのような、極端に強いハイラルキーが存在しないことも関係しているかもしれません。
日本語は文法がシンプルなのはとてもいいところだと思うのですが、こういった明確に内容を述べながらニュアンスをもって話すという文法はかけています。
そのため、パーティーに行けないのは分かっていながら、曖昧に話題を変えたり、返事をしなかったり(返事をしないことで、行けないのを察してほしい)、行けるようなことを言って直前でキャンセルしたりというのが、ごく普通なのではないかと思います。
でも、これは、ヨーロッパでは理解されないし、不誠実で未成熟な子供のような行動だととられる可能性が高いです。
日本では、これは「社交辞令」ととられるかもしれませんが、平均的なヨーロピアンにとっては、これは「嘘・ごまかし」でしょう。
嘘やごまかしをベースにした人間関係は不健康です。
ジェンナさんは、以下のようにアドバイスしています。
「真実を言いましょう。私たちは、他の人々の気持ちを傷つけるのでは、と心配しがちですが、真実を言うこと、自分の気持ちを大切にすることは重要です。「誘ってくれてありがとう。今夜は私には自分自身の時間とスペースが必要なんです」と真実を言いましょう。もし、あなたの友人が、あなたの決定にがっかりしたとしても、OKです。あなたは、他の人々がどう感じるかということについて、責任はありません。あなたが自分と相手に対してフェアである限り、真実を語っていいのです」

LGBTQに関するお勧めの映画:
The UKから
Pride (日本語訳では、「パレードへようこそ」)(The UKの連合国4か国のうちのイギリスとウェールズで撮影)
実話を元にしています。何度観ても、いい意味で涙しながら、心があたたかくなります。ウェールズの公式言語はウェールズ語と英語で、ウェールズは音楽でもよく知られていて、村人たちが歌うシーンもよく出てくるのですが、それにも思わず引き込まれてしまいます。ちなみに、イギリスも合唱がとてもさかんです。歌うことが好きな人はぜひ近所の合唱団をのぞいてみてください。

The USAから
Milk (日本語訳では、「ミルク」)
これも実話をもとにしています。主演のショーン・ペンの演技も素晴らしく、見ごたえがあります。

Yoko Marta