加害者が、加害の責任を取る社会

Yoko Marta
19.06.23 02:28 PM - Comment(s)

加害者が、加害の責任を取る社会

イギリスの国営放送BBCのRadio4で、偶然、「 The Why Factor - Victim Blaming 」という番組を聞きました。


強盗や窃盗の被害者を責める人は少ないのに、なぜ、性的なことが関ることだと、被害者を責める人々が大きな声で堂々と発言したり、被害者が自分を責めるような気持に陥りやすいのは、どうしてでしょう?
また、どうやったら、このnorm(ノーム/標準的な環境)を変えられるのでしょうか?

最初に、事実は、加害者が100パーセント悪く、被害者は全く悪くありません。加害者が加害することを選択しなければ、そもそも被害者は存在しません。
また、子供(18歳以下)については、1~2歳ぐらいから、男女ともに、明確に、何が性加害なのか、何がグルーミングなのかを年齢に応じて教えていく必要があります。
性加害やグルーミングにあったときに、子供たちが早い段階で気づき、すぐに周りの大人たちに知らせることができる状況をつくり、子供たちはどうやって大人に知らせるのかをよく分かっていて、大人たちもどう対応すればいいのかをよく知っておく必要があります。
同時に、加害者となりやすい男性についても、子供や女性の権利を侵害してはいけないことを根気強く、家庭・学校で教えていく必要があります。
もちろん、女性も男性も加害者・被害者両方になりえます。
家庭では、男尊女卑が自分たちの言動に現れていないか、よく観察・確認する必要があります。子供たちは、大人の行動やメディアから自然と学びます。

この番組の中でいくつか挙がっていたのは、よく知られているものですが、Applied Moral Phychology (応用倫理的心理学)の研究者、Laura Niemiさんが個人のもっているモラル・倫理に関する価値観が大きく関わっている可能性があるという説はとても興味深いものでした。

まず、よく知られているものから。

  • 完全に間違った神話:男性の性欲は強すぎて男性自身にはコントロールできないので、コントロールするのは女性の役目 (女性が服装に気を付けたり、女性一人で出かけない等)→ 事実は、大部分の男性は女性や子供への性加害はしません。レイプや暴行を行う少数派の男性は警察の前で実行にうつすことはなく、慎重に場所やタイミング、手段を選択し犯行に及んでいます。

  • 受動的な言葉の使われ方によるもの: 多くの報道は、「How many women were raped in the college=何人の女性が大学でレイプされたか」で、「How many men did rape the women="何人の男性が女性をレイプしたか」ではありません。前者の受動的な表現は、女性は何かを体験したけれど、そこに加害者がいるという認識を引き起こさず、まるで加害者は存在しないかのようです。

  • 言葉の使われ方から生じる間違った認識:性的暴行が報道される場合、多くは、「マリーは性的暴行をされた」となり、「主語」が被害者となります。この場合、多くの人々は、反射的に、「主語」=「被害者」に責任があると思います。逆に「ボブがマリーに性暴行をした」という文章だと、「ボブ」=加害者が「主語」で、「マリー」=被害者が「目的語」となるため、多くの人々が、「主語」=「加害者」に責任があると思うそうです。

  • パワー(権力・社会的立場やネットワークの強さからくる力や影響力)の大きな不均衡:多くの場合、加害者は男性で、被害者は女性です。男性は社会的に高い地位をもっていることが多く、それに対して女性は弱い立場にいます。Me tooムーヴメントで、Harvey Weinsteinが最終的に裁判所で裁かれたのは、女性にしては非常に珍しく社会的に力をもつ、Angelina Jolie等の女優たちが複数声を上げ、彼女たちは世間からも信じられたことにあります。多くの場合、加害者と比べて圧倒的に立場の弱い被害者は、真実を信じてもらうことすら難しい状況にあります。そのため、彼女たちの訴えを真摯に受け止めることは、とても大切です。

  • Just world theory:「世界は公平な場所で、良い人には良いことが起こり、悪い人には悪いことが起こる」という現実や事実に即さない思い込みです。良い人々が性暴行等を受けるのを見ると、「良い人にも悪いことが起こる=自分自身は良い人だと認識していて、自分にも悪いことが起こるかもしれない」という不安感に耐え切れず、「被害者が悪いことをしたに違いない」と自分を守るために、被害者を責めます。これも、普通に考えれば、加害者は加害を選択できるけれど、被害者は被害を受けないという選択肢はない、という現実を完全に拒否しています。事実をまっすぐに見て受け止めることは大事だし、被害者を責めることで、加害者が庇われ、加害者がさらなる性加害を行うことを助長し、世界は危険な場所になります。また、普遍的な正義が行われない場所は、誰にとっても不安で危険な場所です。

  • Social Cohesion(社会的結束)へのプレッシャー:多くの人々が、自分が所属している社会やコミュニティーのnorm(ノーム/標準的な環境)に自分をはめこみ、自分はそのグループに「Belong(所属している)」と思いたがっています。自分たちの仲間に「性加害をするようなひどい人」が混ざっていると認めるのは、自分たちの中核的な価値観に反することで、とても心理的抵抗感の高いことであるため、被害者を責めるほうがラクだということになります。また、加害者である男性は、「いい奴だ」と思われていることも多く、コミュニティーの誰にとっても、この男性に対して「あなたの行動は、OKじゃない。あなたは、あなたの(卑劣な)行動に見合った罰や結果を受けるべきだ」と言うのは、心理的にとてもハードルが高いことであり、代わりに被害者を責めるほうがラクだということになります。

  • 家父長制の影響:性的暴力の加害者は男性で、被害者は女性の場合が多いです。男性たちは自分たちの仲間の一人である男性が「性加害をするようなひどい人」と認めるのは難しく感じ、女性たちにとっては、被害者の女性をサポートした場合は、男性であるコミュニティーの権威者が決めたnorm(ノーム/標準的な環境)に従うことを拒否したと見なされ、コミュニティーから除外される恐れがあります。そのため、被害者の女性を責め、加害者の男性を支持するほうが、自分にとっては安全だということになります。また、家父長制の他の影響としては、男性のニーズを満たすことが先にきて、女性のニーズは一番最後ということで、男性である加害者をまず最初にきづかい、女性である被害者については、女性自身の責任性をまず考え、加害者の責任を考えるのは、それよりずっと優先度が低いということになります。

次に、私自身は初めて耳にした、Laura Niemiさんの個人のもっているモラル(倫理)に関する価値観がどう関わっているかという考察について。

多くの場合、性的暴行は、顔見知りの間で起こります。
ここでは、加害者・被害者を含む同じコミュニティー(親戚、同じ町の住民、同じ職場、同じ趣味のサークル等)に所属している人々もたくさんいます。
Lauraさんによると、Indivisualizing Values (個人をベースにした価値観)を強く持っている人と、Binding Values (グループの結束をベースにした価値観)を強く持っている人々では、被害者の痛みに共感するか、被害者が悪いと責めるかの大きな違いが起こるそうです。

Indivisualizing Values (個人をベースにした価値観)では、フェアネスを尊重し、自分の所属するグループや個人的なひとの好き嫌いを大きく超えて、すべての人々のWell-beingを願う価値観をもっています。
このIndivisualizing Values (個人をベースにした価値観)を強くもっている人々は、被害者のアイデンティティーや自分と同じコミュニティーに所属しているかどうかに関わらず、被害者の痛みに共感する傾向がとても高いそうです。

これに対し、Binding Values (グループの結束をベースにした価値観)を持っている人々にとって、大切な価値観は、権威を尊敬し、権威に服従すること、所属しているグループへの忠誠、純潔さです。このグループの中にいる人々のみのWell-beingを願っています。
このBinding Values (グループの結束をベースにした価値観)を強く持っている人々は、これらの価値観に外れたと見なした人々をグループから除外する傾向を強く持っています。これには、「レイプされた・性暴行を受けた=純潔というグループの価値観に違反した」ということで、被害にあった人に寄り添うのではなく、被害者をグループから除外して罰を与えようとします。この例には、名誉殺人(例/被害者は、強制的な結婚を拒否したことで、グループ内の重要な価値観である「権威への尊敬」「グループへの忠誠」に違反した)も含まれます。加害者に対しては、許容度がとても高くなるとされています。
加害者は、モンスターのような人ではなく、ただの普通の、自分たちと同じような仲間の一人です。そうであれば、仲間内で性的暴行が起こることを可能にしたグループやコミュニティーの文化やのnorm(ノーム/標準的な環境)についての内省が必要となります。それは、自分たちの中核的価値観にチャレンジすることとなり、とても難しく感じ、被害者に責任を押し付けるほうがラク、ということになります。そうすることで、自分たちの価値観は正しい、と自分たちの中核となる世界観・価値観を変えずにすみます。

また、被害者と加害者が同じコミュニティーに属していることが多く、このような性的暴力には、被害者も(加害者と知り合いだから)なんらかの役割を果たしたのではないか、と何も悪くない被害者が自問させられたり、周りから疑惑を投げかけられることもよくあるそうです。これで得をしているのは、加害者であり、これは加害者がさらに加害を続けることを助長します。

このBinding Values (グループの結束をベースにした価値観)が強いと、自分のコミュニティー外の人が殺人したのならば、すぐに警察に通報していたのに、夫が人殺しをしたときには、証拠隠滅を手伝うというように、グループやコミュニティーへの忠誠心が勝って、ひととしての普遍的な倫理観をスイッチ・オフするということも起こりがちです。

あなた自身は、どのような社会やグループに所属していて、どういった価値観をもっていると思いますか?
自分の価値観を変えるのはいつだって可能です。

被害者を責める仕組みは見えてきたと思いますが、私たちには、この被害者を責める間違った仕組みを壊し、加害者に責任を取らせるという望ましい仕組みを作ることは可能でしょうか?

答えは、難しくはあるものの可能です。

また、加害者が責任逃れができる社会では、ますます性暴力がひろがり、誰にとっても危険な社会となることを覚えておかなければなりません。
誰もが安全になるまでは、みんなが危険にさらされています。

提案されていたのは、以下です。

男性が女性に対して権利を侵害した場合(性的暴行や痴漢、盗撮、同意なしに身体の一部に触れる、性的な話題をする、性的なモノとして見たり扱ったり発言したりする等):

  • 何がフェアな罰なのかを決める

  • 加害者が被害者の権利を侵害した後、どのように加害者をコミュニティーに戻すかを決める

  • 誰がこれらの規則をつくるのかを決める

上記を決めて実行すれば、被害者を責めるという悪習を破ることが可能です。
世の中に変わらないものはありません。
いったん、被害者のいうことに真摯に耳を傾け、実際に起こったことを認めれば、問題解決をすることが可能です。

法律が変ることも重要ですが、社会を形成している私たち一人一人が変る必要性はもっと高いでしょう。

Yoko Marta