BBC soundsの ここ からきけます。
同じBBCで、2020年の放送になりますが、「Start the Week, Leila Slimani on Sexual Politics」も興味深いものでした。 ここ より聴けます。
日本だけで暮らしていると見えにくいかもしれませんが、アフリカ大陸、中近東、アジア、南アメリカ等のほとんどの国々は、面積も人口もずっと小さい西欧諸国に植民地化されていた時代が長いです。国によっては数百年にわたります。
そのため、旧宗主国の言語(英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語等)は1950年代から1980年代ぐらいにかけての独立を果たした後も、公式言語となっています。
モロッコも1956年にフランスの植民地から独立国家となりました。
植民地からの独立とは、宗主国がやすやすとスムーズに独立を認めるわけではなく、残虐な武力で抑え込もうとする宗主国側と、抵抗を場合によっては数百年続けてきた植民地側のひとの大きな犠牲を伴っています。
独立した後も、旧宗主国の介入はさまざまな形(旧宗主国の石油会社がインフラを作っているため、現地で働いている現地人はとても安い給料で働かされ、利益のほとんどは宗主国企業に流れ、現地での公害については何ら対処がない等)で続きます。また、宗主国が作り出した憎しみのシステム(特定の部族を優遇し、ほかの部族を冷遇する/宗主国である白人は優れていて、植民地側の有色人種はすべて劣っているという嘘の作り話等)も、独立国となったからといって、消えるわけではありません。
フランスの旧植民地国では、特にアルジェリアの独立は、アルジェリアの人々の大きな痛みを伴うものでした。アルジェリアは、フランスの最後の植民地でした。
レイラさんの母方の祖母は、アルザス地方のフランス人で、フランス軍側で闘っていたモロッコ人の祖父と恋に落ち、モロッコへと渡りました。
植民地支配を受けるということは、宗主国が自分たちの都合で戦争をする際にも、自分たちに決定権はないので否応なく駆り出されます。
現イギリスの大英帝国は広大な植民地をもっていたので、第一次世界大戦も第二次世界大戦も、植民地国から多くの兵士を呼び寄せました。ちなみに現イギリスは、The UK(イギリス、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4か国からなる連合国)のうちの一か国、イギリスですが、残りの3か国を植民地にしていた時代が長くあります。そのため、すべての国で英語を話しますが、もともとの現地語であるウェールズ語やゲーリック語は姿をひそめています。学校でも英語で教える為、現在、ウェールズ語を話す人口はウェールズの3割弱程度だと見られています。
レイラさんの一家は、ブルジョワであるとみられるものの、父は政府で仕事をしている際に、横領罪の嫌疑をかけられ牢獄に入れられ、その後も不遇の時代を送り、亡くなってから無罪が証明されたそうです。
母は、モロッコでもはじめての女性耳鼻科の医師で、強いフェミニストの考えをもっているそうです。
レイラさんは、父が亡くなった後、無実が証明されたときに、父の周辺から離れていった人々が、父のことを「いつも無実と信じていた」等のことばを聞いたそうですが、彼らは本当に嘘つきでHypocricy(ハイポクライシイー/偽善)だと言っていました。実際に、これらの人々は、レイラさんの父が逮捕された際には、父に対しての批判を行い、あっという間に近寄らなくなったそうです。
この「Hypocricy(ハイポクライシイー/偽善)」という言葉は、レイラさんからよく発せられます。
それは、モロッコの抑圧された社会を反映しています。
ちなみに、レイラさんはとても流暢で雄弁な英語で語ります。翻訳でなく、彼女自身のことばで語るのを聞くのは、どんなに翻訳が素晴らしくても、全く違うものです。
レイラさんは、当時のモロッコの富裕層家庭の伝統で、17歳ぐらいになると、フランスの大学へと留学します。これは、植民地教育が今でも生きている証拠の一つでもあります。高等教育をフランスやアメリカ・イギリス等で終えた後、モロッコへ帰ってくる人々も多いものの、レイラさんはフランスへ残り、ジャーナリストとなります。レイラさんは、モロッコの現地語であるアラビア語も、フランス語と同様に母国語であるため、中近東の国の担当だったそうです。
レイラさんは、モロッコでは、女性は「処女」か「母」にしかなれないという「Hypocricy(ハイポクライシイー/偽善)」にさらされているとしています。
モロッコでは、現在でも、堕胎は犯罪(たとえレイプの結果だとしても)、結婚前にキスをすることすら犯罪、ゲイであることも犯罪ということに、大きく反対を唱えています。
ただ、そんな刑法があっても、適用されるのは貧しい普通の人々で、お金と権力があれば、刑法に関わらず自由にできる矛盾した状況があるそうです。堕胎も違法であるものの、一日600件が起きていると見られているそうです。ここには、多くの貧しい女性たちがレイプや望まない妊娠にさらされている状況もあるそうです。
若い女性たちの「基本的人権(特に自分の性や身体へのAutonomy(自治権/自律権))」を求める声は高まっているものの、もっと年上で金力も権力もこれらの若い女性たちより大きい、リベラルな女性たちの反応は冷たいものだそうです。
レイラさんが、これらの女性たちからよく言われるのは、「レイラ、あなたの言ってることは正しい。でも、あなたは口を閉ざして沈黙するべき。あなたは、この国(モロッコ)の印象を悪くしている」だそうです。
レイラさんの答えは、「批判なんてどうでもいい。私が気にかけているのは、ゲイという理由だけで投獄される人々、堕胎で投獄される人々のことだから」です。
レイラさんは、女性が自分の身体に対しての自由をもたないとき、それは、その国での市民であることを否定されていることだとしています。これは、Dignity(ひととしての尊厳)をもたないということでもあります。
日本や他のアジアの国々のように、モロッコでは、女性には性的な欲求はないとされています。
モロッコはイスラム教が主流の国で、そういった禁欲的な部分は宗教と結び付けられることが多いものの、レイラさんは、植民地化される前のモロッコやほかのイスラム教主流の地域も、植民地化の前は性的なことについてはもっと寛容なものだったとしています。
これは、他の歴史家たちも指摘していることであり、植民地をスムーズに支配するために、「男性は女性と子供を隷属させる(宗主国での仕組)/宗主国(フランス)が植民地国(モロッコ)を隷属させる」ということを、言葉や文化、政治的システム、法律・司法、教育等、さまざまな面から浸透させていったからです。
レイラさんは、国が支配され屈辱を感じた男性たちは、自分より弱い立場の人々(女性や子供たち)に憎しみをぶつけ、男性から女性への締め付けや暴力が厳しくなったのは、この植民地化の影響もあるのでは、としていました。
植民地時代には、植民地支配者側に逆らえば、確実に支配者側に身体的に殺されるか、運が良くても社会的に殺されるのは確実です。宗主国の人々は、植民地の現地の人々を非人間化しました。
レイラさんは、母性という偽りの神話についても興味深い発言をしています。
彼女の母は、強くフェミニズムをサポートしているそうですが、レイラさんが仕事で数週間家をあけ、夫が子供の面倒をみていると、「母親がいないなんて子供がかわいそう」と繰り返し言い、レイラさんに罪悪感を無意識的にも引き起こそうとするそうです。でも、夫が仕事でいないときには、夫に対しては「あなたは、子供に早くあいたいと思うでしょう」と全く違う反応だそうです。
レイランさんは、母は、自分の発言の矛盾に気づいていないようだとしています。
レイラさんは、母親に繰り返し「父親は母親と同様に子供にとって大事な存在だし、私の夫は私と同じかそれ以上に子供の面倒を見ることができる」と言っています。
レイラさんが仕事で忙しかった2年間、夫は仕事を辞め、子供の面倒と家事を引き受けてくれたそうです。
レイラさんも、夫にはとても感謝しており、夫のやりたいことがあり、家庭にいられない場合は、自分の仕事を減らして子供と家庭の面倒をみる覚悟があるとしていました。
これは、お互いに対等で、きちんと話し合いができる関係性がある証拠でしょう。
大人なのに、家事ができない/しない、というのは、ヨーロッパでは考えられないことです。家事は、料理一つをとっても、材料の買い出しや食料品の在庫や冷蔵庫の整理・メニューをたてて料理、準備、片付け、残り物の活用、ごみの処理、掃除等と見えづらい複雑で煩雑なタスクがたくさん積み重なっている上に、これが毎日終わることなく続きます。
ヨーロッパのように、どちらもがプロフェッショナルとして働く場合、食事や家事の簡略化を試みたり、一部をアウトソーシングするのはごく普通のことです。イギリスでは、3家庭のうち1つは、定期的に掃除サービスを外部に委託しているという統計もあります。
「女性」が上手に料理をする、掃除好き、男性の面倒をみることが好き、といったことは全く期待されていません。
大人であれば自立しているので、男女関わらず、最低限暮らしていくためのスキルをもっているのが当たり前と見なされます。
社会の仕組上、女性のほうが給料が低いという傾向はあるものの、家庭内で、給料の高いほうが上の立場或いは偉い、といった考えは全く存在しません。
ヨーロッパでは、自分の面倒すら見られない男性と子供をもつという選択をする女性はまずいないと思います。
どちらもが自立して愛し合っていたとしても、子供をもたない選択もよくあることです。子供がいると予期できないことも起こり得るし、子供が一人で自分の面倒をみられるようになるまでは責任もあるし、時間もとられるため、二人だけで満足という場合もあります。
レイラさんも、子供のことは愛しているけれど、子供がいることで大変なこともあるし、常に母としての役割を負うなんて無理、自分の時間が必要、とはっきり言っています。
ヨーロッパでは、「親を喜ばせるために/子孫を残すため・氏を残すため/社会に貢献するために/自分がひととして成長するために」子供を持たなくてはならない、という考えは全く存在しません。
これは、社会によって、どこかの時点でつくられた話にすぎません。
夫婦・カップルの対等で良い関係がまずあり、その上に子供なので、お互いの関係性が確立されていないのに子供をもつ、ということはまず考えられません。
もちろん、お互いの関係性が後に悪くなる場合だってあります。修復を最大限試みても修復不可能な場合は、共同親権という形で、どちらもが責任をもって子供の面倒を見るということになります。
子供がいる場合、子供の安全と権利が最優先となります。なぜなら、子供にはどんな状況に生まれるかという選択はなく、自分一人では生きていけない存在だからです。
女性だって自分の時間や、プロフェッショナルとして成長するために必要なときもあり、対等なパートナーとしてやっていくには、お互いが一人で立てる、生活できる状態でないと成り立ちません。
レイラさんも、女性が経済的に自立していることはとても大切であると自分自身も強く思っているし、母もそう主張していたそうです。
経済的に自立できなければ、暴力をふるう男性のもとに留まらざるをえなかったり、自分のひととしての基本的な自由どころか、安全すら確保できない可能性が高くなります。
ヨーロッパでは、ベビーシッターやChild minder(チャイルド・マインダー)と呼ばれる子供の面倒をみるひとを雇うことは、ごく普通にあります。
往々にして、これらの仕事は低賃金で、移民女性が担っています。
レイラさんは、これを家父長制による、女性による女性の搾取と呼んでおり、マトリョーシカのように、女性の中に女性がたくさんいて、一番内側の小さな女性は、社会から目に見えない存在となっている、と表現していました。
彼女自身もナニーに子供の面倒を頼むときもありますが、彼女の周りのリベラルだといわれるフランス人女性の中には、これらの子供の面倒をみる移民女性を人間とも思わないような発言もあって、驚かされたと言っていました。
移民は往々にしてフランスの旧植民地からきた人々で(フランス語を話すから)、有色人種、違法移民である可能性もあり、階級や社会での立場も低いことが多く、さまざまなアイデンティティの組合せで、女性の中でもさらに下層に追いやられることとなります。
家父長制の仕組は、男性から女性に行われることだけでなく、女性から女性に対して行われる搾取、抑圧といったことも起こします。
ここには、権利を求めて立ち上がる女性たちを抑圧しようとする女性の存在も含まれますが(自分たちも我慢したのだから、あなたたちも我慢するべきといった間違った考え方など)、レイラさんによると、モロッコの若い女性たちは、それを越えて団結し始めているそうです。
レイラさんの年代(1980年代生まれ)やレイラさんの母の年代に比べると、女性同士がつながって助け合うことが大きく増えてきて、希望が持てるとしていました。
これには、レイラさんのように、矛盾した状況に正面からはっきりと声を上げ続ける人がいることも大きいでしょう。
レイラさんは、モロッコの保守的な社会からもバックラッシュにあうし、フェミニストということで、国境を越えてさまざまな脅しも受けますが、怖いと感じることもあるものの、自分がよく知られている小説家として力をもっているからこそ、その力を、声をあげられない女性たち、声をあげても全く聞いてもらえない女性たちのために、つかっていく使命があるとしています。
レイラさんやほかのフェミニストも指摘しているように、これは、男性対女性の闘いではありません。
男性の多くも、この家父長制から抑圧を受けています。
多くの男性は、女性を支配したいとは思っておらず、女性と対等な立場で優しさをもった愛のある関係を気づきたいと思っているし、男性の多くが、ごく少数の既得権益をもった男性たちから抑圧されています。
私たちは、協力して、この既存の家父長制システムを破壊して、愛や優しさを基盤とした社会をつくることが可能です。
そのためには、しっかりと真実をみつめ、知識をつけ、現状を的確に言語化し、行動を起こしていく必要があります。
そこには、レイラさんのように、自分のもっている想像力を活かして、フィクションを通して社会の矛盾を暴き出し、真実にきづかせ、実際の社会を変えていくという方法もあります。