The Green Catalyst
The Green Catalyst
Creating futures we can believe in

従順・素直であることの危険性

Yoko Marta
02.10.23 04:16 PM Comment(s)

従順・素直であることの危険性 ー 大切なのはMorality

日本では、「従順」であることが美徳であるように語られるかもしれませんが、ヨーロッパでは、ネガティヴな意味合いです。

これは、日本で生きていくにも理解しておいたほうがいいことだとは思いますが、ヨーロッパで生きていくのならば、しっかりと理解しておく必要性があります。

「従順な」に近いことばとしては、英語では「obedient」或いは「submissive」「docile」「amenable」等さまざまですが、どれも奴隷のような扱いを進んで受け入れるかのような印象を与えます。
日本語でいう「素直」も、英語では「従順な」ということばと同等と見なしていいと思います。
「言われることを何でも受け入れる、言われたことを何でもやる」ということは、ヨーロッパでは、美徳どころか、よくないことです。

それでは、「Obedience(従順)」の定義はなんでしょう?

従順とは、「何が正しいかに関わらず、言われたことをする」です。
逆に、Morality(日本には同じ概念はない。無理やり日本語にすると、倫理観、道徳規範)は、「何を言われたかに関わらず、倫理的に正しいことを行う」です。

日本では、権威者(親や先生、上司)に言われたことや、道理の通らない規則や決まりを盲目的に守ることがモラルだと勘違いされていることも多いと思いますが、これは、モラルではありません。

Morarilty(倫理観)とは、外側から押し付けられるものではなく、自分の内面にあるものであり、さまざまな経験・体験や知識を通しながら、生涯をかけて育て、強めていくものです。

「従順」な子供やおとなは、親や先生、上司の命令を何でも聞いて、疑問ももたず質問もせず、便利な存在かもしれません。

でも、これは、本人にも社会にも問題です。

従順な大人になってしまったひとは、自分の頭と心をつかわず、倫理的に問題があることであっても、質問もせず、機械的に従うでしょう。また、自分の行動に責任をもつこともないでしょう。

ちなみに、たとえ命令されたとしても、その命令に従わないと確実に命を落とすという極端な場合を除いては、ヨーロッパでは「上司に命令されたので(違法かもしれないと知りつつ)やった」というのは、Complicit(共謀)ということで、当然責任が生じます日本のように、権威者から命令されたことをやったので、自分には全く罪はない、という論理は全く通用しません。なぜなら、ひとである限り、私たちには、エージェンシー(日本にはない概念。無理やり訳せば主体性)があり、正しい選択をすることが可能だからです。悪い選択を行い実行したのだから、命令した人と同様に、その罪を背負います

また、「従順」であるということは、本人を危機に陥れることもあります。「従順」であれば、簡単にだまされて他人や組織から利用される可能性が高くなります。

国際的な犯罪組織で売春部門を担当していて捕まったひとが、被害者を選ぶ最大の基準は、美しさでもなく技術でもなく、「従順」であることだとしていたそうです。彼らは、被害者を「従順」にするためのさまざまなテクニック(抵抗するひとを拷問して見せしめにする等も含めて)や手順をもっているそうですが、最初から「従順」であれば、簡単に無期限に搾取し続けられます

また、性被害にあっても、声をあげて助けを求めることすらできない可能性が高くなるでしょう。
加害者は、上記と同じで、簡単に搾取でき、抵抗したり周りに口外する可能性のとても低い「従順」な被害者をターゲットにします。
「従順」であるように小さい頃から仕込まれていれば、誰かや何かに抵抗するという思考さえ奪われていて、何かが起こってもそのまま「黙って耐える」という方向にいく可能性は高いでしょう。
また、たとえ嫌な思いが強くて抵抗しようとしても、抵抗を許されたことがなければ、抵抗の仕方すら分からなくて、何もできず、かたまるしかないかもしれません。
子供のころからちょっとした反論をしたぐらいで、暴力をふるわれたり心理的な暴力(無視や怒鳴られる)を受けていれば、抵抗することは不可能でしょう。

また、社会的・経済的に弱い立場のひとびと(子供や女性)を作り出し、その仕組みをキープし、弱い立場に追いやられた人々に「従順」であることを強要するような社会では、被害に対して声を上げても、間接的・直接的に誰もが権力のある加害者の味方で、なんとか声をあげても無視されるという現実を知りすぎるほど知っていて、黙って耐えるしかないと諦めるかもしれません。そうすれば、加害者は決して加害の責任を負うことはないので、社会全体で加害はひろがり、結果的に誰にとっても(とりわけ弱い立場の人々にとっては)とても危険な社会となるでしょう。

「従順な子供」に強制的に仕込もうとするのは、その子のためにも、社会のためにもやめたほうがいいでしょう。

ヨーロッパでは、子供が自分で正しい情報を得て、強い倫理観を自分の中に持ち、それに従って適切な判断をし行動することができ、周りのひとの権利も自分の権利も大事にできる自立した大人になることをサポートするのが親の役目であり、「従順な子供や従順なおとな」にすることは、全く求められていません。

もし、自分が「内面に善悪の基準をしっかりともっておらず(倫理観についてほぼ考えたこともない)、従順であるように強制され」育ってきたのであれば、哲学書を読んだりして、倫理について考えてみるのもよいでしょう。ヨーロッパに住んでいれば、ヨーロピアンの友達の倫理観に触れるのもいい経験です。
テレビや映画でも、よく「この行動をして、自分の顔を鏡で見られるだろうか。」というセリフを聞きますが、これは、自分の行動(困っているひとを助けられるのに助けない等の行動しないことも含めて)は、自分の内面にあるモラル・コンパスに照らし合わせて正しいことをしているだろうか、という自分に対する問いです。自分のモラル・コンパスにあわない行動を取るというのは、とても恥ずべきこととなり、自分の顔をまともに鏡で見られない、ということになります。なので、正しい行動を選択し、実行しようということになります。ここでは、周りからどう見られるかと言うことは全く関係ありません。

もし、まだ親の観護下にある年齢であれば、先生や親の言うことの本質を見抜くよう努力し、「何も考えずに言われたことをやる」という罠から早いうちに抜け出す訓練をしましょう。
ただ、親や先生も、権威には盲目的に「従順」で、自分たちより「下」と見なした人々には、「完全従順」を無意識に求めている可能性は高いでしょう。少しでも彼らの矛盾をつくと、心理的・身体的・社会的な罰を与えられるという理不尽な環境にいる場合は、表面上は抵抗しないことを選択したとしても、自分の思考や観察を手放さないようにしましょう。
政治犯として長く刑務所に不当に入れられていたひとびとも、「どんな状況でも、考える自由はある」と言っていました。
考えを表現すると死にいたるような場合でも、思考や観察を手放すことをしないのは、人間として、とても大切なことです。

この「子供・女性は従順でなければならない」という考えは、支配・被支配という考え(権力や金力・コネクションをもった人々やグループが社会の残りの人々を抑圧・搾取し、好き放題にふるまい、自分たちの行動の責任は取らない)という仕組からきていますが、この仕組も支配者層も、どこかの時点で作られたものです。いったん支配者層に属してしまえば、自分たちの力を失わないため、弱い立場の人たちをその場所に巧妙に閉じ込んで搾取し、自分たちにすべての力とお金を蓄積できる仕組みを保てるよう、法律を都合よく変えたり、社会規範に大きな影響を及ぼしたりします。
ただ、これも作られた仕組を多くの人々が信じて抵抗しないから、続いているだけであり、人々がこの仕組を疑いだし、抵抗し始めれば、遅かれ早かれ崩れます。

私たちには、生まれながらに持っていて、どんな状況でも誰にも奪えない基本人権があり、誰もが対等です。
力とコントロールで支配者層が、残りの市民たちを抑圧し搾取するような社会では、支配者層が「偉い」「上」であるかのような幻想を作り出し、人々を洗脳しますが、それは作られた偽の考えであり、ひととして誰もが対等です。
また、日本では、基本人権がとても誤解されているように感じるのですが、これは「義務」とは全く関係ありません。
たとえ、病気やさまざまな事情で全く動けなくて、さまざまな人や福祉の助けで生きることが可能な状況であっても、誰でもうまれつきもっている権利です。
誰が「上」「下」でもなく、誰かがより「生きる権利」をもっているわけでもなく、
誰もがひととしての尊厳をもって生きる権利をもっています。それは、国家からも誰からも侵犯されないものです。

フィンランドが貧しい国だった時から、子供が生まれたときにいわれているのは、「Everyone is welcome(誰もが歓迎=この世界に存在してくれて、きてくれて、ありがとう)」だそうです。

誰もがお互いの尊厳を尊重し、資源を喜んで分け合う社会であれば、「従順な子供を強制的に作り出す」ことは、ないのが当然でしょう。

社会の仕組は強固に見えても、人々がからくりに気づき、誰にとっても良い社会の合意をつくって動き出せば、古い仕組みは揺さぶられ、崩れていくでしょう。

そのためには、ひとりひとりが、心と思考をはたらかせることを続けなくてはなりません

Yoko Marta