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映画「To Kill A Tiger」

Yoko Marta
08.12.23 06:16 PM Comment(s)

映画「To Kill a Tiger」一人でも虎に立ち向かって勝つ

先日(2023年12月7日)に、ロンドンのBloomsbury地区にあるCurzon Cinema(イギリスでの映画館の大きなチェーン)で、ドキュメンタリー映画「To Kill a Tiger」の上映があり、それに伴って、映画の後に女性監督のNisha Pahuja(ニーシャ・パフジャ)さんを交えたパネルディスカッションがありました。

ロンドンという都会にいて良かったと感じるのは、監督とのパネルディスカッションのように直接対話できる機会があることです。聴衆からの質問も興味深いものもあるのが楽しいです。

監督のニーシャさんは、インドでインド人両親の元に生まれ、小さいうちにカナダに移民したカナダ人です。英語が母語ですが、インドの現地語も話すことができ、文化への理解の深さ、優しさを感じる視線がいつもあります。

映画は、インドの田舎の貧しい米農作人のRanjit(ランジット)さんの13歳の娘、Kiran(キーラン/映画の中での仮名。彼女の安全を守るため)さんが、彼女の従弟を含む3人に、村での結婚式があったときにギャングレイプされ、村人たちの殺人予告も含む脅迫にも負けずに、ランジットさん、妻、キーランさんが、正義を求めて裁判に訴えていく話です。

ニーシャさんは、インドのレイプ・カルチャーに心を痛めていて、男性のマスキュリニティーについて変化を起こそうと活動する団体のアクティヴィストたちを追っていました。Slijan Foundation という団体が主催する、男性の意識を変えるワークショップに参加していたランジットさんの娘がギャングレイプにあい、父のランジットさんが正義を求めて娘のためにたたかうというとても稀なケースを聞き、引き合わせてもらいます。

日本で育つと直感的に理解できると思うのですが、インドでは、レイプにあった被害者が「恥/消えない染みがついた」として責められ、加害者の男子・男性を守ろうとする風潮がとても強いそうです。

そのため、ランジットさんのように、父が娘のために立ち上がり、裁判で正義を求めるというのは、まずないことだそうです。

ランジットさんは、言葉少なく控えめですが、とても思慮深いことがよく伝わってきて、女性も男性も平等で、誰もの基本的人権が守られるべきだという信念を強くもっています。

でも、当然村人たちの反応は、全く違うものです。

キーランさんは、結婚式からよろめくようになんとか家に帰り、何が自分に起こったかをすべて両親に話します。ギャング・レイプの後には、3人の加害者からひどく殴られ、口外したら絶対に殺す、という脅しも受けたそうです。
この村では急に女性が消えて死体が森で発見されたこともあり、これは現実になる可能性が高い脅しであることは、誰もが理解しています。また、こういった事件では、誰かが殺人者を知っていても、誰もが黙っていることも誰もが知っています。

インドの村の風習で、ランジットさんが最初に連絡したのは、村の首長会のリーダーですが、この人の対応も苦渋に満ちたものです。最初は、レイプは既に起こったのだから、その加害者のうち一人と結婚させればいい、というものですが、ランジットさんが強く断ると、じゃあ、警察に行くといい、という発言になり、ランジットさんとキーランさんは警察に行き、訴えを起こします。
被害者が警察に行くこと自体も、このような社会では非常に難しく、数少ないことは理解しておく必要があります。
病院での診察も受け、ひどい暴力を受けたことが証明されました。
ニーシャさんによると、村の首長会は、警察や裁判を関わらせることをいやがる傾向があり、特に女性への加害については、女性を犠牲にして男性を守ろうとする傾向が非常に強いため、「警察へ行けばいい」という発言は、彼の立場を鑑みると画期的なもののようです。

ランジットさんが、このような難しい問題に最初から、映画監督を交えて撮影を許可したのは、意外に感じるかもしれませんが、ニーシャさんによれば、ランジットさんは賢明で、村人からの強力なバックラッシュがあることと、貧しい農民の娘のレイプ・ケースは全く重要でないと思われて、裁判所でもまともに扱ってくれないことを予期し、ドキュメンタリー撮影をしていることで、家族の安全と裁判所できちんとこのケースを扱ってもらえる効果が高いことを考慮してのものでした。

村人からのバックラッシュは、とても長く過酷なものです。

ランジットさんの一家は、村人たちから完全に無視され、誰も話しかけず、遠くから悪口を言うように集まって遠巻きに話したり、ランジットさんに対しては「(娘の処女性を守れなかった)恥さらし」と直接暴言を言ってくる人々もいます。

キーランさんは、「あの娘は穢れているから、近寄ってはいけない」と親に言われた友達から無視され、学校に行ってもひとりぼっちで、ますます無口になりました。

それでも、キーランさんは、父と母、キーランさんのレイプケースをサポートする弁護士やさまざまな人々に支えられ、正義を求めることを諦めません。
また、「自分がが穢れている/恥だ/(レイプにあったのは)自分が何か悪いことをしたからだ」という、村人たちのナラティヴを信じることを拒否します。

彼女は穢れてもいなければ、恥でもありません。
レイプという犯罪に対して、正義を求めて勇敢にたたかう尊敬されるべきひとです。
当然、悪いことをして恥を感じるべきは、加害者ですが、家父長制の非常に強い閉鎖された田舎社会で、一家全員が無視され殺人宣告をされるような環境で、この気持ちを持ち続けることは容易ではありません。

キーランさんは、撮影を始めた当時は13歳だったため、彼女のアイデンティティを守るため、彼女の顔をぼやかしたりする必要がありました。でも、この映画は3年半かけて撮り、その後編集にも時間をかけていて、映画が完成したのは8年後のことでした。このとき、キーランさんは、成人と認識される年齢に達しており、本人が映画を観た後、自分の顔をぼやかさず、はっきりと出すことに合意しました。

キーランさんは、映画を観て、13歳の自分の勇敢さに誇りを感じたそうです。そのため、自分の顔をはっきりと出すことに合意しました。

映画の最初と最後に、キーランさんの安全性を確保するために、彼女の顔や彼女だと分かるような写真・画像等はどこにも出さないでほしいという旨が映し出されます。

村人たちは、女性の多くも、ランジットさんと妻に裁判をやめるよう強く抗議します。
村の男性たちと同じで、「Boys are boys(男の子たちはやんちゃなもの)」「(加害者の)男の子たちは、もう同じことはしない」「キーランさんの服装や見かけが(加害者たちを)刺激したに違いない。彼らはみんないい子。キーランさんが悪く、男の子たちは罪はない」「あなたたち家族が、(裁判に訴えることで)村の和が乱れて、誰もが迷惑している」「キーランは既に染みがついていて、誰も彼女と結婚しようなんて思わない。(加害者の男のうち)一人と結婚することが、彼女の染み(穢れ)を取り除いて、あなたの一家から恥を消す唯一の方法」と迫ります。

ランジットさん不在時に、村人たちが団体で押しかけてきて脅しても、キーランさんの母は一歩も引き下がりません。
ランジットさんがこの映画の主役ではあるものの、この妻の確固とした存在も非常に大きなものです。

村人たちの言っていることは、現代の西欧諸国で育った人々にしてみれば信じられないことで野蛮と感じるかもしれませんが、監督のニーシャさんは、村人たちが生きている環境もよく理解していて、ジャッジせず、彼ら/彼女らに自分たちの考えを表明するスペースを与えます。

村の首長がいうことも、この閉鎖された貧しい環境では、ある意味合理的です。もちろん、正しくはありません。
「結局、(ランジットさん一家は)この村に住まなくてはならない。みんなが平和に協力しあう以外にこの村が生き残ることはできない。これ(レイプ)は、村のことで、(裁判をまじえず)村の中で解決するべき。(加害者の)男性たちが裁判で有罪になると、親たちも怒って村の和が乱れるし、既に起こったことは戻しようがない。国や政府が(ランジットさん一家が村八分になって生きていけない状況になったとしても)面倒をみてくれるわけじゃない」

それでも、ランジットさんは、このStatus quo(ステイタス・クオ/現状態勢維持)に真向から立ち向かいます。

ランジットさんも、妻も、キーランさんも、こういった風潮・社会が変り、女性の人権が男性同様に大切にされ、誰もレイプされないことが普通になることを強く望んでいます。

そのためには、キーラさんのような、貧しい農夫の娘のレイプケースが正義を勝ち取ることはとても大切なことです。

長い間、ランジットさんと妻は、眠るときも交代して、村人たちからの暴力(家を焼き払われる等)に備える必要があり、疲れ切っていました。それでも、ランジットさんは、「キーランのことを思うと、恐怖は消える」と言っていました。

裁判に勝訴したときも、ランジットさん一家を支えていた団体は、「特に身の回りの安全にさらに始終気を付けるよう」忠告せざるを得ませんでした。加害者の家族が怒りにかられて唐突な暴力的な行動に出る可能性はとても高かったからです。
女性の人権はあまりにも軽く見られていて、たかだかこんなことで、自分の息子を牢獄へ送るなんて許せない、という発想になりがちのようです。
個人的には、ランジットさんが予期したように、こうやってドキュメンタリーのために映画製作でカメラをまわしたり、さまざまな人々が出入りするような環境だったからこそ、ランジットさん一家の命が守られたのでは、という感じます。

キーランさんのケースが勝訴したことは大きく新聞にも掲載され、ニュースでの報道もあり、その後、この地域ではレイプに関する訴えが二倍以上に増えたそうです。これは、インドでの風習を考えると、画期的なことだそうです。

キーランさんのように貧しい農夫の娘のレイプケースが勝訴したということは、多くの少女や女性に勇気と希望を与えたことでしょう。

加害者がきちんと責任を取らされることが多くなれば、確実にこういった犯罪は中期的・長期的に減ります。

この裁判の勝訴には、ランジットさんと妻の絶え間ない努力もありますが、キーランさんの証言が最終的には決め手になりました。

最初の捜査を行った警察官はあまりにも無能で、犯罪場所の血痕や争った後等のとても基本的なことさえ調査しておらず、裁判官にすら、無能であることを指摘されたそうです。

10代の少女にとって裁判で証言するのは、とても大変なことです。

ランジットさんと妻は、キーランさんの証言の練習を手伝い、裁判では途中で涙してつまったこともあるものの、とてもパワフルな証言を行ったそうです。

それが、勝訴につながりました。

映画の後でのパネル・ディスカッションでの聴衆からの質問では、「普通の貧しい農夫のランジットさんが、閉鎖された小さな村の凝り固まった考え方の人々に囲まれて育っているにも関わらず、男女平等、正義を求めることの大切さ等の考えをもちえたのはなぜか」という質問がありましたが、ニーシャさんは、「ランジットさんの父は家族を捨てて出ていき、シングルマザーの家庭で育ったので自然と女性への尊敬があるのでしょうが、同じような家庭で育っても全く違う考えになる人もいます。さまざまなことが影響しあっているのでしょうが、閉鎖された家父長制のとても強い社会に育っても、全く違う考えをもつ人々がいることは、希望でもあります」といった内容のことを言っていました。
ランジットさんの公式な教育は限られているかもしれませんが、とても熟考するひとで、知的さ・聡明さが自然と伝わってきます。

この映画でいいのは、ランジットさん一家がヒーローとして描かれるのではなく、村人たちからの強烈なバックラッシュにあって、自分たちの選択が正しかったのだろうか、と悩むランジットさんや妻の姿も映し出されていることです。そのたびに、家族みんなで支えあい、正しいこと(裁判で正義が行われることを求める)をすることを選択します。

キーランさんが映画の最後近くで、ふと口にする「Go with an honest heart and it will be OK(正直なハートで進んでいけば、大丈夫)」という言葉は心に残ります。
キーランさんは、現在は村を出て別の場所でさらに上の学校へ行き勉強しているそうです。ときどき村に帰ってくるときは、昔彼女を無視していた村の友達も、みんな話しかけてきて、仲良くしているそうです。

この映画は、まだ配信会社が決まっておらず、映画を配信してくれる企業や団体を探しているそうです。
日本でも上映されることを願っています。

この映画では、キーランさんが髪にリボンを編み込む場面がよく出てきて(朝の身だしなみの一環)、妹の髪をリボンで結ってあげる場面も出てきますが、これは、キーランさんの子供時代のイノセンスを現すものでもあり、周りからの「穢れている」という迷信を拒否する決意でもあります。

Yoko Marta