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Fierce Self-Compassion(フィアース・セルフ・コンパッション)/(たたかうための)強いコンパッション))your post title

Yoko Marta
15.04.24 05:18 PM Comment(s)

Fierce Self-Compassion(フィアース・セルフ・コンパッション)/(たたかうための)強いコンパッション))

ある日、いつものMeditation App(瞑想アプリケーション)のHeadSpace(ヘッドスペース/英語がベースでほかのヨーロピアン言語でも聞けるけど、アジア言語はなし)を聞いていると、アメリカの心理学者のKristin Neff(クリスティン・ネフ)さんのPodcastがあり、心に残りました。


Podcastで、クリスティンさんは、自閉症をもった息子さんがまだ小さい時に、かんしゃくがとまらなくなり、息子本人も苦しいのだろうと思いながらも、自分もつらくて、自分の腕をさすりながら「クリスティン、大変だね、つらいね、がんばってるね」と心の中で言っていると、息子さんにもクリスティンさんの落ち着きが伝わったのか、かんしゃくはおさまったそうです。
息子さんのかんしゃくは、彼にもコントロールができないもので、クリスティンさんにもどうにもできないもので、それを認めて、自分をいたわるのもコンパッションなのだと思います。
自分の自然な気持ちに逆らおうとしたり抑え込むのではなく、それを認めて、人間共有の経験だとして優しい気持ちで受け止めると、自分も落ち着き、それは自然と周りにも伝わるということなのでしょう。

本来、私たちは生まれて存在しているだけで、Love(愛ー愛は家族や友情、パートナーだったり、地球や生き物への愛だったりと様々)とCompassion(コンパッション/思いやり)を与えられる価値があるひとである、ということが全ての基盤になっています。
これは、生きているひとすべてに共通していることで、そのひとがたまたま心身に不自由があって一生動けない状態だったとしても、同じです。
日本で育つとこの価値観を自分の中にもつことは難しいのでは、と思います。

私自身も、社会や家族、学校や仕事からの刷り込みで、何か役に立つことをしないと存在する価値がないのでは、という気持ちをずっと持ち続けていましたが、イギリスでCBT(認知治療法)とArt Therapy(アート・セラピー)を受け、徐々に、何かの役にたったり、なんらかの社会的役割をこなさなくても、ただここにいるだけでいい、ほかの人からの存在してもいいという許可はいらない、という気持ちに変わっていきました。
赤ちゃんとして生まれたときに、「ノーベル賞を取らないと/世間で良いといわれる仕事につかないと、私は価値のない人間だ」とは誰も思っていません。
これらは、自分がたまたま生まれ落ちた家族や親戚、地域・社会環境で刷り込まれるもので、それらを一歩さがって、その人工的につくられた神話を盲目的に信じて生きていく価値があるのか、その神話をUnlearn(アンラーン/思い込まされていたことや今までの常識をすてる)するのかを考えることは大切です。

ヨーロピアンの友人たちと接していると、彼ら/彼女らが、「いい成績を取ったり、親の自慢になるような子供にならないと愛やケアを与えない」という環境自体が彼ら/彼女らの想像をこえているように感じます。
彼ら/彼女らの両親にとって、子供たちには自分なりの自立する道と幸せをみつけてほしい、と思ってはいても、いわゆるいい大学へ行く、結婚して孫を見せる、等の外からどう見えるかには全く関心がなく、子供たちが元気でいてくれるだけでうれしい、といった感じです。
でも、たまたまこういった家庭に育たず、運が悪ければ虐待家庭で育ったとしても、自分の考えや感じ方、行動を変えることは十分可能です。

英語のCompassion(コンパッション)は、ラテン語由来で、どのように私たちがSuffering(サファリング/苦しみ・苦痛・悩み・苦難)と一緒にいるか(Con)ということだそうです。

親しい友人がつらい思いをしているときを考えると、コンパッションは、最初に友人がつらい思いをしていることに気づき、次に苦難や失敗を経験することや不完全であることは、人間としてのshared experience(シェアド・イクスペリエンス/共有の経験)なのだと悟ります。最後に、その友人に対して、友人を何らかの方法で助けたいという望みを感じて、あたたかさ、理解と優しさでこたえます。
これら3つの要素がコンパッションだと、クリスティンさんは述べています。

今までのことを考えて、こういった経験をしたひとは多いのでは、と思います。
ただ、それを自分に対して行うのが難しいひとはたくさんいるかもしれません。
コンパッションは、誰に対してなのかは関係なく、自分に対しても、ほかの人々や地球上の生き物や自然に対しても、適用するものです。
コンパッションは、Pity(ピティー/可哀そうに思うこと・憐れみを感じること)とは全く違うものであることは、意識しておく必要があります。
憐れみを感じるのは、誰かを自分よりも下にみているときに起こりがちな感情であり、下に見られて憐れまれることは多くの人々にとって助けにならず、どんな状況にあろうと、私たちは、ひととして、イコールなのだと意識しておくことは大切です。

クリスティンさんは、コンパッションは、よく自分自身に対して優しくするだけのように思われがちだけど、忘れられがちなのは、自分のバウンダリー(境界)・権利が踏みにじられたとき、自分や周りの人々や社会において不正義が行われたとき、何らかの危機に見舞われたときに、立ち上がって、自分や周りの人々、権利を踏みにじられた人々のためにたたかうことでもあるとしています。
クリスティンさんは、これを「Fierce Self-Compassion(フィアース・セルフ・コンパッション)/(たたかうための)強いコンパッション」と名づけて、今の自分や状況を受け止める優しいコンパッションを「Tender Compassion(テンダー・コンパッション)」とよんでいました。

このバウンダリー(境界)については、イギリスを含むヨーロッパで育つとよく理解されていて普通に実行されているのですが、日本だけで育つ、あるいは虐待家庭や子供を搾取するような状況で育つと、難しいものです。
特に虐待的に見えなくても、子供を親の身体の一部のように考えて行動するような親をもった場合も、恐らくバウンダリー(境界)を設定することは難しいと感じるでしょう。

最初に、バウンダリー(境界)を設定するということは、自分が望むこと、自分の周りの人々や社会が自分に対して期待していることを理解した上で、自分が何を受け入れるかを決め、明確に、簡潔に、落ち着いて、その基本ルール(どこにバウンダリーをひくか)を設定・実行することです。
このバウンダリーは一度決めたら動かないというものではなく、自分と相手との関係の変化や自分が経験したことにおいて考えが変ったりして、動くこともあるし、関係性によっては、高い城壁のようなものであったり、家と家の間をしきる低い生垣のような場合もあるでしょう。どちらにしても、これは自分で決めるもので、他人からどう言われようと、自分の感じること・考えることが大事です。

このバウンダリー(境界)設定が難しいと感じるひとの多くは、「自分は他のひとより価値がない、自分に必要なことは、他のひとにとって必要なことと比べて、注意を払うに値しない」と信じている、或いは信じ込まされている可能性があります。
そう信じているひとは、ほかのひとが自分のバウンダリーをviolate(ヴァイオレイト/侵害する)した場合でも、社会的な結果を恐れて何も言わないかもしれません。
もし、こういったパターンの行動が続くと、そのひとは、自分が何を望んでいるか、何を必要としているのかが、分からなくなります。
短期的には、誰ともぶつからず、ラクな選択に見えるかもしれませんが、中期的・長期的には、誰からも尊敬されず踏みつけにされる対象になる可能性が高く、また自分自身を大切にしないことで、自分の心身の健康やバランスにも良くない影響が起きるでしょう。
自分の心身の健康と、自分の本当に大切なひとびとのためにも、バウンダリーをきちんと引き、侵害する人には穏やかにはっきりと侵害しないよう、伝えることは大切です。
今まで、いつも自分のことを後回しにしてきた、後回しにさせられてきた、後回しにするよう洗脳されてきたひとも多いと思いますが、いったん立ち止まって、「自分はほかのひとと同じ権利、ひととしての価値もあり、自分のニーズと望みは大切なものである」ということを思い出しましょう。
ひととしての価値は、賃金を払われる仕事をしている・社会的に地位がある等とはまったく関係ありません。
あなたがこの世界にいるだけで、あなたには価値があるのです。

今までバウンダリー(境界)を明確に設定しなかった場合、その変化に周りの人々は驚き、一時的に気まずい思いをするかもしれませんが、あなたを本当に大切に思っているひとは、喜んで受け入れるでしょう。
あなたを今まで奴隷のように思い通りに扱うことを当然と思っていた人々は、怒ったり脅したりするかもしれませんが、そういうひとびと付き合わなくなれば、あなたのことを本当に大切に思って、イコールな関係でつきあえる人々と出会う機会や時間ができます。

セルフ・コンパッションをもって生きているからといって、困難や、他の人や社会からの悪い扱いにあわないといったことはありません。
ほかの人の言動や環境に対して、ほとんどの場合、私たちにコントロールはありません。
でも、自分がどうRespond(レスポンド/対応)するか、考えるかにはコントロールがあります。
セルフ・コンパッションは、Good will(グッド・ウィル/善いことをしようとする強い意志)をトレーニングすることで、Good feeling(グッド・フィーリング/気分よく感じること)ではありません
どんな状況や困難にあったとしても、セルフ・コンパッションを行うようにしていれば、その状況に対して適切だと思える対応をとれる可能性が高くなります。たとえ、その結果が思ったような結果でなかったとしても、すべてがうまくいくわけではないのは普通で、自分は自分のコントロールできることについて、その状況下でできる限りのことをやったとして自分のことを認め、今の状況をどうよりよくするか、次の機会にどう活かせるだろう、と考えるでしょう。

参考:Self-Compassion Test
https://self-compassion.org/self-compassion-test/
クリスティンさんの公式サイト内で日本語に翻訳されたものは、PDFで以下からみれます。

https://self-compassion.org/wp-content/uploads/2018/05/JapaneseSCS.pdf

Yoko Marta