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Radical Empathy (ラディカル・エンパシー/急進的な共感)ー 世界も私たちもみんなつながっている

Yoko Marta
15.04.24 05:21 PM Comment(s)

Radical Empathy (ラディカル・エンパシー/急進的な共感)ー 世界も私たちもみんなつながっている

Empathy(エンパシー)の主要な意味は、相手の立場に自分を置き、相手がどのように物事をみているか、感じているかを知ろうとすることです。

ただ、私たちが特権をもっているような環境にいて、それに気づいていない場合(例/その国や地域・社会での主要な民族・人種・国民である等も含む)、基本的人権を奪われているような人々のことを想像するのが難しいことは、意識しておく必要があります。

ベテラン・ジャーナリストでアカデミックでもあるIsabel Wilkerson(イザベル・ウィルカーソン)さんの著作「The Caste(ザ・カースト)」に出てきていた「Radical Empathy(ラディカル・エンパシー/急進的な共感)」には、その点で、とても納得するものがありました。
下記のような内容でした。
※私は原書の英語版しか読んでいないので、日本語版だと違ったニュアンスなのかもしれません。直訳ではありません。

ラディカル・エンパシーとは、あなたのことでも、その状況下であなたがどうするだろうと思うことでもありません。
あなたはその状況にいたこともなければ、恐らくこれからもそういった状況にいることはないでしょう。
これは、他の人々が感じている痛みを、彼ら・彼女らが感じていることにあなたのスピリットを開いて、彼ら・彼女らのいる場所から深く知ろうとすることから生じる人間同士のコネクションです。
エンパシーは、経験・体験そのものに代用できるものではありません
カースト・ロータリーが当たった人々(カーストのくじ引きに当たった人々ーアメリカの場合は、たまたま白人に生まれついたひとが人工的に作られたカーストの中でトップに入り、いたる場所で優遇をうける)が、カースト制度の一番下の階級で苦難を受けたひとに対して、何が攻撃的で傷つくか、屈辱的なのかをいう(決めつける)立場にはありません。

イザベルさんは、アメリカで生まれ育っていてアメリカの国の仕組をよく知っているのでアメリカを例にしていることが多いのですが、カーストというのは、男尊女卑も含めて、人々を生まれたときの性別・その特定の地域での身分や人種等のボックスに入れて、それにより、その人のひととしての価値を人工的にあげたり、さげたりする仕組のことです。文化的・社会的に数世代にわたって受け継がれると、どんなに馬鹿げたシステムでも、人々はその思想を内在化させ、疑問にすら思わないようになります。特に自分が特権階級に生まれ落ちた場合、どうやってでも、そのシステムを持続させようとするでしょう。たとえ、特権階級の中では、一番下の地位にいても。
ただ、そういったシステムの中のどの地位に生まれ落ちても、そのシステムの不正さ・馬鹿げていることを見抜き、役割やシステムに迎合することを拒否し、すべての人々がイコールであることを信じて行動する人々が必ず出てくるのは、人間の興味深いところであり、希望でもあります。

たとえば、私自身、貧困・虐待家庭で育ちましたが、たまたま、いわゆる勉強はできたため、住んでいた地域の国立大学を卒業しました。その国立大学の近くには、偏差値という面でみれば、その国立大学よりずっと低い私立の女子大学があり、そこを卒業して教師をしていた知り合いが、「貧しい家庭の子供たちは頭も悪く、問題も起こすばかりなので、校長から怒られる原因にもなるし、もう学校に来ないでほしい」と言っていたので、私自身も貧困家庭出身で、貧困と学業ができないのはイコールではないし、家庭にたくさん問題があれば、どんなに頭がよい子供でも、学校で授業に集中することが難しいこともあるのでは、といった内容のことを言ったように覚えているのですが、「貧困家庭の子が、あの国立大学へ行けるはずがない。貧困家庭の子はみんな頭が悪く、素行も悪く、どうしようもない。」という主張で、いろいろな環境にいるひとびとや子供たちのことを想像しようとする余地すらなかったのは、印象に残ったので覚えています。

裕福な家庭で育ち、周りも裕福なひとばかりだと、貧困家庭で育つことがどういうことなのかある程度の想像はできても、実際に経験していないことを理解するのは、多くのひとにとっても難しいことかもしれません。
自分が裕福であるということは、多くの場合、たまたま親や親族や祖先が裕福であったということを引き継いだだけで、自分自身はその豊かさを得るためには何もしていないケースですが、それを自覚せず、また、自分がたまたま裕福であるという特権をもっているように、裕福であるという特権をたまたま持っていないひとがいる(その人個人のせいではなく、裕福でないことはその人の本質の良し悪しとも全く関係ない)ということにすら、気づかないひともいるでしょう。
でも、興味をもち、オープンマインドで、その人にとって貧困家庭で育つとは、どういうことなのかを聞くことは可能です。
同じような貧困家庭でも、そこにどのような虐待が関るのか、関わらないのか、周囲にサポートの仕組があるのか、ないのか等、さまざまな要素が影響するし、一人一人は違うので、それをどう感じるのか、対応するのかもさまざまです。
どう感じるか、対応するかについて、たまたま裕福であるという特権をもっている側が、「私だったら親戚に助けを求める(→ 貧困は連鎖していることも多く、頼れるような親戚なんていないことが多い)」「私のように頑張ってよい大学に行く努力をしなかったあなたが悪い(→ 貧困で大学へ行くことが不可能だったり、虐待家庭で心身がくじかれて行けなかったり途中でやめざるを得なかった場合だってありうる)」と自分の側からみたことだけを押し付けても、誰の助けにもなりません。

イギリス(白人主要国)に日本人が住むということは、有色人種・移民・英語が母国語ではない、ということで、あからさまな差別や微妙な差別や有色人種に押し付けられるイメージ等に影響されることも経験します。
小さい例でいえば、洋服を買いにいくと、白人のひとから、ショップ・アシスタントと間違われて、違うサイズのブラウスをもってきてほしい、と言われることもあります。以前はITエンジニアだったのですが、「中国人がITエンジニアになれるわけはない」と、白人のひとに言われたこともあります。小さなことですが、オリエンタルな見かけだと中国人だと決めつけられることは多いし、白人のひとの中には、有色人種は召使のようなもの、と無意識に思い込んでいる人々もいます。
ただ、そういう目にあったときは、白人のひとたちは、50代かそれ以上だったので、まだ大英帝国の植民地宗主国として地球の半分近くの地域の資源を強奪し、有色人種を白人より劣る人種だとして従属させていた時代の名残をまだ引きずっていたのかもしれません。
でも、地味なことでも、こういったことが重なると疲れることもあります。
ただ、社会の仕組からきていることは理解しているので、個人的に怒りを感じることはありません。
こういったくだらないことを聞かれることがない、というのも、その地域での主要民族である人々の特権の一部でもあります。
あからさまなものだと、「(有色人種なんだから)道を譲って、私を前に行かせなさいよ」と数人の白人の言われたこともありますが、全く無視して、そのまま歩きました。有色人種だから白人に道を譲れ、なんておかしな要求を飲む必要はありません。もちろん、身の危険が感じられる場合は別ですが、幸いにも、黄色人種に対する侮蔑用語を叫ばれ、バスの中で押されて倒れそうになったのは、25年ぐらい住んでいて一度だけです。かつ、周りにいた見知らぬひとたちが(白人もそうでない人たちも)私の味方をして助けてくれて、とても心強かったです。

同時に、今まで「日本人」として日本に住んでいるというのは、それだけで特権があり、その特権に自分は気づいていなかったのだと、イギリスに住むようになってから実感しました。
私が育った地域では、特定の国出身(その人自身は日本生まれ・育ちでも)の人々に対してひどい偏見があり、その人たちは日本人に憎しみをもっていて、何をされるか分からないから、その人たちが住んでいるとされる地域には近寄らないよう言われていました。その決めつけに疑いを持ちつつも、洗脳されていた部分もあり、曖昧な気持ちでいたものの、大学時代の友人たちは日本中のさまざまな場所からきた人たちで、地域の迷信など知らず、その地域に住んでいて、彼ら・彼女らを訪れることが何度もあり、当然ですが、その地域のひとびとは普通のよい人々であることを発見しました。
その人たちは、住んでいる地域のせいで就職で差別をされたり、私がまだ幼いときには、選挙権を求めて立ち上がったりしていたと思うのですが、そういったことにあまり関心をもたないでも過ごせるのも、特権の一つだということを、振り返って気づきます。
彼ら・彼女らに起こる不正義(選挙権がない等)は、特権をもっている側にいる私のほうが協力すべき(日本人だというだけで、警察や司法といったシステムに不当に扱われる可能性は、日本人でない人々よりずっと少ない)であり、同じ場所で生きていて、その人たちは、自分の仲間のひとりでイコールなんだと心から思います。
また、これは、移民や外国籍や祖先のどこかで外国出身ということだけでなく、LGBTQだったり、心身の不自由だったり、その社会で多数側でない人々に対しても同じことを思います。
でも、日本で日本人としてだけ生活していたら、気づくのは難しかったかもしれません。

ヨーロッパでのマイノリティー側での経験と、自分が生まれた国でたまたま主要民族出身であることからの特権がある経験両方をもっているのは、ヨーロッパでの一部の白人の有色人種に対するふるまいへの理解(差別的なふるまいは受け入れませんが、主要民族であるがゆえの無知や想像力のなさは、自分も昔そうだったので同情はします)ももたらします。
もちろん、差別的なふるまいだと感じたら、オープンマインドで(差別的な意図がないことも十分ありうるので)、その質問をする理由を聞きます。
昔、よく聞かれていたのは、(聞いてきたのは白人ばかりでしたが、ヨーロッパ内は白人が圧倒的に多いのでそのせいもあるとは思います)「あなたの国ではくじらや猫や犬までも食べるそうね。」といったことですが、白人に対してそういった質問をするとは考えられないので、「どうして、そういう質問をするの?」「どうしてそのことに興味があるの?」と聞いてました。
差別的な要素が強いと感じたときは、「白人ヨーロピアンに対しても同じ質問をすると思う?」と押したときもあります。
こういう質問をする人たちの中には、有色人種(別に日本に限ったことではなく、有色人種全般。日本とほかのアジアの国々の見分けが全くつかないひとも多い。アジアから距離が遠いことを考えてもある意味仕方ないとは思います)に対して、無意識のバイアスをもった人たちもいますが、別に悪い人ではなく、話してみると普通にいい人だったりもします。

歴史に対する理解(植民地化における植民地として搾取された側からの歴史等)も進み、知識を得るツールも増えた今、「無知」状態から脱するのは、以前より容易になっています。
特に、たまたま特権が多くある地位に生まれ落ちた場合は、その社会で虐げられている人々の痛みも理解しようと努力し、(自分の優位性は、自分では何もしなくても、結局はその社会システム内で下に置かれた人々の犠牲の上になりたっていることも多いのは事実)、無知状態から脱し、誰もがイコールである社会にするために、虐げられた人々と共にたたかうのは大切です。
それは、エンパシーがもたらすよい行動であり、世界全体を良くする方向への一歩でしょう。
多くの人々がたとえ小さな行動でも始めれば、それはいつか大きなウェーブとなって実現するでしょう。
逆に、自分さえがよければいいと思って、無知に甘んじて何もしない人が増えれば、世界は悪い方向に進み、結局は、自分にも返ってくるでしょう。

世界はつながっている、人間である私たちもみんなつながっていることを意識して、行動することは重要です。

Yoko Marta