トラウマをかかえた人の、ひどい状況を生きぬいた生来の内側の強い勇気とエネルギー・希望 ①

Yoko Marta
16.10.24 02:53 PM - Comment(s)

トラウマをかかえた人の、ひどい状況を生きぬいた生来の内側の強い勇気とエネルギー・希望 ①

ある日、ふと聞いていたPodcastに、トラウマの専門家医のBessel van der Kolk(ベッセル・ヴァン・デア・コーク)さんが登場していました。
現在のところ(2024年10月14日時点)、「How To Academy」のポッドキャストから無料で聞くことができます。
ベッセルさんは、オランダで生まれ育ったものの、学士や博士課程はアメリカで取得し、そのままアメリカでずっと働いているそうですが、ヨーロピアンなまりがあって、親しみを感じます。

私自身は、数年前に原書の「The Body Keeps the Score」を読みましたが、日本語にも翻訳されているようです。ただ、英語と日本語間だと、言語だけでなく文化の溝も深いので、できれば原書で読むのが、著者の意図が分かることにつながりやすいと思います。

このポッドキャストの対話の中で、ベッセルさんは、いくつか興味深いことを話していました。
ベッセルさんのお話から、考えたこと、思ったことを記載しています。
私自身、日本に20代半ばまで暮らし、子供時代の虐待や、日本にいる間、セクシャルアソルト・セクシャルハラスメント、ストーキング、痴漢等の性加害に悩まされて、会社の中ですら、暗い廊下を歩くことが恐怖だったり、一人で外に出ることが困難だった時期もありました。
イギリスにきて以降、これらの日常的な性加害はなくなり、安心して暮らせるようになったものの、結局はイギリスで1年ほどセラピーを受けて、トラウマ状態であったことに初めて気づいた経験があるので、ベッセルさんの言っていることには、うなずく部分が多いと感じました。

トラウマときくと、戦争で戦争犯罪でもある市民の多くの殺害に関わってしまった等の例を思い浮かべるかもしれませんが、自分自身はトラウマをもっていない、と頭で認識していても、ちょっとした音や誰かの表情や声音に身体が固まってしまうような経験や、誰かに突然軽く肩を叩かれてだけで飛びあがりそうになって平静を保つのに苦労したような経験は、実は少なくない人数の人々に起きているのでは、と思います。

ベッセルさんは、トラウマの定義について聞かれて、完全に定まってっいるわけではないし、(人間は複雑なので)一つの狭い定義におさまるようなものではないけれど、「今現在の人生・生活で起こっていること(一般の人たちにはなんの影響も与えないような音や誰かの表情や声音や話し方や行動等)が、自分の能力をこえて精神的に対応できないものとなり、日常生活になんらかの困難を与えている状態ー過去に、自分の内部の何かが壊れるような状態が起こり、そのできごとは去り新しい今という状況にいるにも関わらず、まるで今でもその危険な過去の状態にいるかのように、ものごとを(無意識的に)解釈し続けて反応し続けている状態ー過去に閉じ込められているような状態」としています。
日本で育つと、人間は複雑なもので、頭脳や身体、自分の反応等はすべて結びついている、というのは自然と理解できることだと思うのですが、ヨーロッパでは、歴史的に頭脳や身体を分けて考える傾向があることを、ベッセルさんは指摘して、司会者のとてもヨーロピアンな考えに基づいた質問に「それはすごくヨーロピアン的なフレーミングの質問だね」と明るく笑って、質問自体を別のフレーミングからとらえなおしていました。
ベッセルさんは、トラウマ専門医としての経験から、頭脳や身体や気持ちはすべて結びついていて、ひとを全体としてとらえることが大事だとしています。

トラウマは過去のことがきっかけになっているとはいえ、人々が治療にやってくるのは、過去にこういうことがあった、ということからではなく、実際に今の生活で、ほかの多くの人々が爆発しないようなことで過剰に反応してしまい、家族や同僚と問題が起こったりして、現在に問題を抱えていることが原因でやってくるそうです。

ベッセルさんは、ごくまっとうな精神科医やセラピストは「あなたに何が起こったのでしょう?」とまず聞くでしょう、としていました。

ここでは、過去と現在をつなぐ作業を一緒に行うこととなります。
過去に何が起こったのか、例えば、子供の頃に父親から暴言や暴力をふるわれていた恐怖が意識としてはのぼってこなくても、身体が記憶していて、父親と似たような人、声が大きい人、怒鳴られていると感じるような状況で、身体的に反応し、ほかの場面では穏やかな言動の人だったとしても、攻撃的に言い返したり、涙が出たり、身体が震えて何も言えなくなったりするかもしれません。
過去と現在のコネクションを知り、どんなことに傷ついたのか、それがどのように現在にインパクトを与え、自分が過去のその時点に生きていて、「今」と「ここ」に生きていないことに気づくことが重要です。
自分が過去の経験に反応し続けている状態から抜けだし、どのように「今」と「ここ」に生きているようにできるかを探索します。

この探索の道のりでは、「自分の経験がとてもひどかった」という事実を認める必要があります。
トラウマとなったできごとについての対応でよくあるのは、自分自身に対して、「親に暴力をよくふられたりしたけど、全体的にはハッピーな子供時代だった。(昔のことは)忘れて/乗り越えて、そんな風にリアクトするべきじゃない。でも、どうしても強い感情が起こるのを抑えられない。自分は狂っているのか?この感情をどこかに追いやりたい。自分は普通になりたいだけ」として、アルコールや薬を使って感情や身体反応をコントロールしようとし、依存することになりがちです。
マインドは、とにかくそういった感情や身体反応を無視して走り続けようとしますが、身体的・感情的には、過去に起こったことが今ここで起こっているかのような反応をし続けます。
また、多くの人がいう「普通」というのは、何が普通なんだろう、とベッセルさんは疑問を投げかけています。
彼はすでに70年ぐらい生きていると思いますが、「普通の人なんて、会ったことない」と言っていました。
みんな違うのが当たり前です。

トラウマとなるような出来事や自分がどう感じたかを、ほかの人たちの経験と比べることには意味がありません。
全く同じ経験をする人はいないし、同じ事故現場にいたとしても、事故で死んだのが自分が小さい時で大好きだった両親だったのか、全然知らない人が死んでかつとても仲の良い友達がその場にいて一緒に支えあえる状況だったのか、もともと安定した愛のある家庭で育ってきた上での事故だったのか、事故を目撃した後に心身的によいサポートがある環境だったのか等で、トラウマになるかどうかということは、個人によって違うのは当然です。
外側からみて、(いわゆる)良い仕事についているからトラウマはない、ということも意味がありません。
同じぐらいのトラウマを抱えていても、子供時代の愛着関係や家庭の状況から、トラウマを抱えつつ社会的には成功しているように見えるかもしれないし(内面では苦しんでいて、家庭内では問題があっても)、日常的な生活を送ることがままならず路上生活を与儀なくされている人もいるでしょう。
「ハリケーンで家族全員を失ったような人と比べると自分の経験はたいしたことはない(=自分の経験は、それと比べるとずいぶん軽くて、トラウマとなるはずがない)」といった、ひどい出来事にハイラルキー・上下関係をつくることには、なんの意味もありません。
その当時のあなたにとって、ひどい出来事であれば、それはひどい出来事だったのです。
なかには、「私はもっとひどい経験をした。あなたの経験でトラウマになるはずがない」や「自分だったら、そんなことが起こったらこういう対応をしている」等を言う人もいるかもしれませんが、その人たちは、あなたと全く同じ状況(家庭のありかた、育ち方、経済状況、社会的地位、コネクション、親戚や近所の人や友人とのつながりの強さ等)にいたわけでもなければ、あなたのことを知っているわけでもありません。
あなたと同じような状況に陥ることすらありえない、特権のある状況で育ってきて特権をもっていることにすら気づかず、人々はいろいろな状況で生きているのだという、ごく当たり前な事実を全く想像・理解できない人も世の中にはたくさんいます。
大事なのは、あなたがどう感じたかです。

自分の経験がひどく、自分はそれに傷ついたことを認めると、自然と自分に対して「そんなひどことを経験したんだね、大変だったね」という優しくいたわる気持ちが出てきて、自分との関係性は優しくケアするものとなります。
自分のいくつかのパーツはよくて、いくつかのパーツはだめだ、という考えも自然と消え、自分の中のどんな部分もウェルカム、と感じるようになります。
ここから、「私は、どうやって私自身が過去のできごとから抜け出して、「今」と「ここ」にいることができるよう、私自身を助けることができるだろう」と考えられるようになります。

次は、トラウマが現在の生活にどんな影響を及ぼすのか、ひどい出来事があったときに、どのような要素がトラウマを軽減したり、深刻にすることになるのかについてお話します。

Yoko Marta