ヴィクティム・ブレーミングと闘うー社会・権力構造を見抜く・変える ③

Yoko Marta
10.03.25 06:27 PM - Comment(s)

ヴィクティム・ブレーミングと闘うー社会・権力構造を見抜く・変える ③

前回は、ヴィクティム・ブレーミングを世界という視点から、その国や社会、地域での支配グループが被支配グループに対しての既存特益や特権を保ち続けるための権力構造がオプレッションで、そのオプレッションが見える形で現れるひとつの形が、ヴィクティム・ブレーミングで、これは性暴力だけでなく、アメリカやイギリスでの黒人への暴力や、イスラエルでのパレスチナ人虐殺にも共通することをみました。

今回は、女性への性暴力におけるヴィクティム・ブレーミングの仕組について。
ここでは、家父長制(男性が支配者で、女性や子供は支配される被支配者の男性至上主義)というオプレッションが働いています。

ちなみに、イギリスで長く働く司法精神科医Gwen Adshead(グウェン・アズヘッド)さんは、家庭や社会の人間関係性のなかで起こる殺人事件について興味深い考察やリサーチを行っていますが、基本的には、殺人というのはとても稀な犯罪だそうです。
ただ、殺人といっても、特定のイデオロギーに基づいたテロリスト事件での殺人や、麻薬組織等の犯罪組織が関わる殺人は、前者とはまったく異なる性質のもので、グウェンさんは扱わないものだそうです。
前者の家庭や社会といった人間関係のなかで起こる殺人については、もともと犯罪の中でも稀ではあり、世界的にみて、先進国(麻薬犯罪やテロリスト事件や戦争中での殺人がある地域は除く)では、殺人は長い間、年々少なくなってきており、加害者・被害者ともに男性が圧倒的に多いそうです。
下記の世界全体の資料をみると、西ヨーロッパだと、「意図をもった殺人事件」の場合、男性が殺される数は、女性が殺される数の約2倍かそれ以上のようです。
日本は殺人率は低い国ではあるものの、多くの先進国とは違い、殺された女性の数が殺された男性よりも多い国です。

日本の資料はここから (令和6年1月~12月 e-Stat 統計でみる日本)
世界全体の統計はここから。(2019年まで)

性暴力(刑法では、罰の重さを決めるために性暴行のハイラルキーが用いられるけれど、合意なしに女性の身体に触れたり、つきまとったり、性的なことばをなげかけたり、痴漢や盗撮、男性が女性に下半身を押しつけてきたり、男性が下半身を露出したりもすべて性暴力で基本的人権の侵害で起こってはならないことであり、触っただけでレイプしたわけじゃないからたいしたことない、等のハイラルキーはない)にあって、驚きと恐怖で固まって動けなくなる女性はたくさんいますが、女性の殺害率が男性の殺害率と比べて高い国では、「殺されるかも」という恐怖は、根拠のある恐怖です。
繰り返しますが、性犯罪については、イギリスでは違法なことの多くが日本では合法であり、性犯罪の加害者のマジョリティーは男性、被害者は子供(男子・女子)と女性であるということを鑑みても、日本は大人の男性にとっては安全かもしれないけれど、女性にとっては全く安全ではない国でしょう。
ちなみに、前述したグウェンさんによると、殺人事件にいたることもあるストーキングについては、加害者の歪んだ思考パターンはとても強固で、通常の殺人を行った人たちは、自分の行動について振り返り熟考して考えや行動を変えることはあるそうですが、ストーキングの加害者は変わらない傾向がとても強いそうです。
グウェンさんは、ストーキング加害者は、被害者のことをペットや自分のモノのように思っている傾向が強いとしていました。
グウェンさんは、現在も、どう彼らがストーキング加害という行動をやめられるかを試行錯誤しているそうです。

日本にいると気づかないかもしれませんが、基本は「どう加害者に加害をさせないか」であって、被害者に被害にあわないよう注意しろ、という理不尽なものではありません。
もし、誰かが「男性の性欲は抑えられないから(女性への性暴力は)仕方ないこと」というレイプ神話をつかったら、それが本当なら、警察署の前でもオフィスやお店といった公共の場所でもレイプは起こっているはずだけど、そうじゃない(性暴力の多くは、家庭や親戚間、塾等の知っている人々の間で、権力や社会的地位・経済的地位等が不均衡な関係性のなかで、閉じられた場所で起こる)、もしそれが事実なら、男性は社会の安全への脅威となるので、すべての男性の行動を制限(男性全員に電子タグをつけて警察が監視を行う、夜の外出禁止令等)しないといけないけれど、実際に性暴力を行う男性は限られていて、性暴行なんてまったくしない大多数の男性たちに対して失礼であることを伝えましょう。

家父長制に戻ると、家父長制はさまざまなレヴェルで働いています。
家庭といった小さな単位から、政治やメディア、警察や司法機関等の大きな単位までさまざまです。
これらの、個人的な空間、公的な空間すべてが、女性の価値を切り下げる家父長制の社会的なnorm(ノーム/風潮)を共有しています。
家父長制は社会的な構造なので、男性だけでなく、多くの女性たちがこの家父長制の仕組みを内在化して、この構造を保つことを助け、さらに強固にしています。
性暴力にあった女性や子供に対して、「なぜそんな場所にいたのか/どうして逃げなかったのか/あなたの態度が誤解させたのでは/おおげさに言ってるだけでは/嘘をついているんじゃないの」等の、ヴィクティム・ブレーミングを行うのは、男性だけでなく、女性も多いことや、性暴力にあった女性に対して冷たい態度を取る女性が多かったり、自分に起こったことではないから関係ないと無関心な女性が多いことも、この家父長制の構造が強く作用していることを示しています。

根本的な問題は、その社会で性暴力が普通のこととして受け入れられていることです。
日本だけに住んでいると気づかないかもしれませんが、子供(男子・女子)や多くの女性が電車や公共の乗り物で痴漢にあうことが当たり前になっている社会は異常です。
痴漢は性暴力であるにもかかわらず、加害の標的になっている子供や女性ですら、当たり前になりすぎて性暴力と認識できないところまで至っているのは、社会が病んでいる証拠であり、加害者にとってはとても都合のよい場所でしょう。
もちろん加害を選択した加害者が100パーセント悪く、被害者はどんな状況でも100パーセント悪くありません
加害者が加害をしない社会にするためには、この性暴力の加害の横行を許す、助長するような社会の構造をしっかりと見つめ、壊す必要があります

性暴力が普通のこととして受け入れられている社会では、女性が、男性支配・優位・男性至上主義を内在化するように育てられていて、夫であれば、妻に何をしてもいいと信じ込まされています。
男性も、そういった家庭・社会で育つと、明確にことばにされなくても、男性支配・優位・男性至上主義が当然だと思うようになるでしょう。
また、多くの女性たちは、家父長制を意識的・無意識的に支持していて、性暴力を性暴力として認識することすらできない状態となっていることもあげられます。
自分たち女性に不利益なことしかもたらさない家父長制を無意識に支持する女性たちがいるのは、慣習などで自然と吸収するだけでなく、権力が強いひとやグループと自分を同化してみなし、自分も権力の強いグループに所属しているという幻をたもつために、弱いとみなされたグループの人々を軽蔑・攻撃する気持ちも影響しているのかもしれません。
また、家父長制が女性から女性へと永続的に引き継がれることもあげられます。
女性は、夫やパートナー、ボーイフレンドがセックスを求める際には、常に応じなければならないと信じ込んでいて、娘にそう教えこんだり、はっきりと言わなくてもそう思わせるような言動をとります。
もし娘がレイプされたり性暴力(痴漢等)にあうと、母親は、家族の名誉や自分の地位(妻という社会的な地位や夫に所属していることでえられる社会的地位・経済的な安定・住む場所の確保等)を守るために、娘を責め、警察へは通報するなとプレッシャーをかけたりします。
ここには、女性の経済力は男性に比べて圧倒的に弱く、力の不均衡がとても大きいことも強く影響しています。
また、どんな犯罪も社会に対しての犯罪として認識されますが、性暴力は例外で、性暴力は個人的なこと、とされがちです。
これは、さらに女性を沈黙させる原因となります。
イギリスやアメリカの場合では、Cultural privatisation of sexual violence(性暴力の文化的な私有化)が起こり、刑事裁判にしないため(加害者にとって刑事裁判は都合が悪いから)、NDA(Non Disclosure Agreement/秘密保持契約ー実際に起こったことを口外しないという契約)をつかって被害者を黙らせたりしますが、少なくとも、イギリスの大学、Higher Education(ハイヤー・エデュケーション)では、NDAを禁止し、被害者を黙らせることを難しくしました。
ここには、さまざまな団体や法律家、普通の人々の要求やデモンストレーションや署名活動等が、NDA禁止の背後にあります。
自分に起こったことでないから関係ない、といった無関心さではなく、ほかのひと、特に自分より特権の少ない人に起こった不正義については、社会の一員として正義を求めて闘うべきという、ひとびとに共通した土台の考えがあります。

ヴィクティム・ブレーミングの役割は、私的・公的な場での女性たちを制限・管理し、男性加害者の責任を消滅させることです。
本来は加害者が責められるべきなのに、被害者を責めることにより、被害者は沈黙せざるをえなくなり、被害者のagency(エージェンシー/主体性)と権利(犯罪を訴える権利、加害者に加害を行った責任を取らせる等)を抑制します。

被害者である女性を沈黙させる仕組みは、とても巧妙です。
家父長制でつかわれるお決まりの表現(服装が男を誘っているようにしか見えない等)は、被害者に加害の責任を負わせ、加害者の責任や存在を消し去ります。
また、性暴力の被害者に対して、社会と家族からの拒絶や排斥が起こる確率はとても高いことは指摘されています。
被害者のポスト・トラウマティックな症状は、さらに家族や社会からの拒絶や排斥をまねくことになります。
想像上の罪や恥が、被害者に帰属させられることになりますが、実際の罪と恥は、加害者に100パーセント帰属しています。
また、イギリスを含む西ヨーロッパではすでに消え去った迷信ですが、日本やアジアでは、「Purity/ピュリティー(純潔)」への迷信が強く、性暴力の被害者となることで「純潔」を失ったと社会からみなされた場合、そのひとのひととしての価値がさがり、ひと以下として扱われるのが当然、といった嘘の神話がいまだにまかり通っていることも、被害者を黙らせることに影響しているでしょう。
これは、家父長制のなかで、男性が権威で、女性が完全服従する仕組みを保つためにつくられた嘘の神話でしかありません。

社会やコミュニティーは、多くの場合、加害の事実を信じているかどうかに関わらず、加害者側に立ちます。
加害者はより権力のある立場である男性で、被害者は立場の弱い女性や子供であることが多く、人々は、自分たちの社会的な信用性を高めるために、より社会的に権力のある集団に所属したいと思っています。
この権力への欲求は、性加害者を擁護する強い動機づけとなります。
性加害者をかばう人々は、加害者が間違ったことをしたと知っているけれども、被害者によって経験された危害や痛みを認識することができない、あるいは認識すると自分が心地悪くなるので目をそむけて見ないふりをします。
性暴力の多くは、被害者は、加害者が知っているひとであるため、コミュニティーの絆が壊れることや、コミュニティー内ですでにある関係性のコントロールのダイナミクスの関係が壊れることの恐れから、加害者が加害を否定したあとは、被害者は信じてもらえないし、警察もヴィクティム・ブレーミングを行います。
また、社会的に地位が高いひとや知っているひとがそんなことをするはずがない、という内在的なバイアスも影響します。
この人たちに、自分たちとは全く関係ないひとについて、その人が加害を行ったといえば、簡単に納得することもよくあることです。

社会は、被害者の(社会やコミュニティーによって直接的・間接的に強要された)沈黙によって、以前のままの社会やコミュニティーを保っているかのようにみえるかもしれません。
被害者の真実から目を背けることによって、加害者に責任をとらせることへの恐れを避けることはできます。
でも、性暴力に関する沈黙の文化を保持することの感情的、身体的、社会的、経済的なコストは、コミュニティーを(道徳的に)堕落させ、不信感を助長し、維持できない関係性となり、コミュニティーは内部から腐っていきます

社会は何事もなかったかのようにふるまい、被害者を捨てる、廃棄することで、被害者はよけいにトラウマをかかえることとなります。
男性であることが「権威」、女性であることが「(男性への)完全な従属・服従」という文化がつくられたとき、「権威」にはなんのチェック・監査が入らず、「権威=男性」が、女性に対して、簡単に搾取や虐待を行える文化をつくりだします。
男性はいつも逃げ切れると思い、実際逃げ切れます。

私たちは、ヴィクティム・ブレーミングを行うことを拒否し、強要された赦し・和解を拒否するべきです。
強要された赦しや和解には、周りの人々や司法機関からのプレッシャー、「加害者には悪気はなかったんだから許しなさい」「加害者を許さないとあなたが幸せになれない」「すでに起こったことは取り返しがつかないんだから、忘れて前を見るしかない」「あなたにも落ち度があったに違いない」「いつまでも昔のことにこだわるなんて大人げない」等がありますが、これらはすべて真実ではありません。

上記の言動が起こる理由は、人々が加害者に責任を取らせることを恐れていて、正当な理由で苦しんでいる被害者を見ていることが耐えられないからです。
自分たちがその社会やコミュニティーの一員として加害を隠す・見逃す・助長し続けていること、何一つ悪くない被害者を抑圧して被害者の主体性を抑制して権利を奪い黙らせていることを、意識的・無意識的に知っているので、自分たちの心地悪さをマスクするために、被害者に加害者を許す・忘れるを強要しているだけです。
この仕組みに気づいておくことは重要です。

完璧な被害者なんて、人間である以上存在しないし、たとえどんな服を着ていようと、どこにいようと、何をしていようと、どんな職業であろうと、誰かに対して、性暴力を行う権利は、地球上の誰にもありません
加害を行わないことを選択できたのに、選択したのは加害者であり、社会は、加害者にきちんと責任を取らせるべきです。
現在の、性暴力の加害者の加害を許してかばい、加害者の側にたって隠す社会は、性暴力をさらに助長しています。
これは、絶対に変わらなくてはなりません

[参考]
Why Women are Blamed for Everything by Jessica Taylor

Yoko Marta