ヴィクティム・ブレーミングと闘うー社会・権力構造を見抜く・変える ④

Yoko Marta
21.07.25 03:39 PM - Comment(s)

無関心さとたたかう

ヨーロッパで25年近く過ごし、周りや家族もヨーロピアンが多い中で過ごしていると、日本にいたときには、心地悪く感じていても、言葉にして正確に
表現できなかったことに気づくことがあります。


東京近郊で歩道を歩いていたヨーロピアン女性の友人たちは、突然、胸をつかんで走り去る若い男性に驚いたものの、走って追いかけてつかまえようとしたけど、周りにはたくさんの人がいたのに、誰も助けてくれなかったと失望していました。
また、私自身も日本に滞在したときに何度かみたのですが、子供を激しくたたいたり蹴っている大人(多分、保護者で母親や父親)がいるのに、誰もが、何事もなかったかのように通り過ぎることです。
イギリスでも、子供の虐待は存在するものの、子供をたたいたり蹴ったりしている大人を外では見かけることはないし、そんなことが起こったら、誰も黙っていません。
家の中での虐待は分かりづらいものの、子供の泣き声や叫び声が聞こえたり、冬なのに庭に薄着でいるようであれば、声をかけるか、すぐに警察に電話して、子供を守るための最大限の努力を一人一人が行います
子供が虐待で殺されたときに、日本では、加害者である保護者をモンスターのように扱いたがりますが、近所に住んでいる大人たちのインタヴューを聞くと、大多数が虐待が起こっていることをよく知っていたとしか思えない発言で、保護者を厳しく非難しますが、自分たちの共犯性(虐待を知っているのに何もしなかった)について思案したり反省をしているようには聞こえません。
これは、イギリスでは考えられないし、虐待を知っているのに何もしなかった大人たちは、虐待に加担したという見方になります。
イギリスだと、近所の人たちも気づいた人たちは警察にその都度通報したり、子供に声をかけられるときは声をかけたりと、どんなに保護者が怖いひとでも、できる限りのことをします。
それでも命が失われることはあるのですが、「虐待が起こっている可能性が少しでもある場合は、子供を守るための行動をとる」のは、当たり前で、何もしない、という選択はありません
これは社会の暗黙のルールでもあると思います。
また、子供にはその発達に応じたことばで説明するのが普通で、子供をたたいたり、つねったりといった身体的な罰を与えるのは、保護者である大人の精神的な未熟さを示すもので、子供が親の望まない言動をしたら、身体的な罰を与えてもいい、という考え方はありません。身体的な罰をいったん許すと、どこまでがいいのか、という限界点が個人にまかせられ、子供と保護者という力の均衡が激しく違う関係性で、かつ家族という閉じられた空間の中では、チェックやバランスもなく、子供が殺されるレベルまで暴力がエスカレートしてしまうのは、想定内のことだと思います。
私自身、深刻なレベルの虐待家族で育ちましたが、暴力よりも強い絶望を味わったのは、子供のころ、公共の場で理由もなく殴られたりしているのに、警察さえ目を背け、多くの大人たちも目を背けて何事もなかったかのように通り過ぎる無関心さを何度も経験したことでした。
イギリスに来てからは、子供に暴力をふるっている人をみないし、私の周りのヨーロピアンの友人も学校で先生が暴力をふるうこと(頭をたたいたり、平手打ちをしたり、けったり、死ねといったり、いじめに加担する等)は完全に考えられないと言っていました。
日本では、性暴力だけでなく、子供に対する暴力も日常的に当たり前になっていて、それが暴力だと認識できない大人や、子供たちも多いのは、とても大きな問題だと思います。
親に暴力をふられたことがある人もとても少ないし、60代や70代の友人たちでも、子供に暴力(軽くたたく等を含めて)をふるったことはない、という人は多いです。

ちなみに、私自身、Night Bus(ナイト・バス/当時は、地下鉄が朝の1時くらいで終わっていたので、そのあとに使う深夜・早朝のバス)で、知らない男性に「黄色のサル」と叫ばれて押された時もありますが、そこに偶然いた人々みんなが、助けてくれました。

日本だけに住んでいると、特に性暴力についての社会の無関心さのひどさに気づいていないひとが多いのでないか、と思うのですが、ここには、日本がどんな関係性についてもハイラルキーをつくりだし、とても不均衡な権力関係をいたるところにつくりだすことにあるのでは、と思います。
かつ、誰もが力の強いと見えるほうにつきたがり、社会的に立場が弱い子供(男子・女子)や女性に対して冷酷(目の前で虐待や性暴力が起こっていても、それを無視する・見ないことにする筋力が鍛えられていて、人間性・魂を失いかけている)という状態になっている場合が多いのでは、と感じます。
ロンドンは大きな都市ではあるものの、干渉はしないけれど、見知らぬ人でも、何か困ったことがあったり、体調が悪いひとがいると、誰かがさっとサポートを差し出します。
見返りを求めているわけではなく、ひととしてそれが正しいことだという自分の中でのコンパスがあり、それが行動に出ているだけです。
なんらかの社会からのプレッシャーやわけのわからない決まりがあって、それに盲目的に従っているというわけではありません。

この「ひどいことが起こっているのに、それを無視・見ないことにする筋力を鍛え続けるとどうなるのか」という面から、興味深いポッドキャストを聞きました。
エジプト出身で、子供のときにカタールに引っ越し、5歳からアメリカン・スクールに通ったのち、カナダに家族で移民として渡り、大学卒業後はジャーナリストとして10年働いた後、作家となったカナダ国籍でアメリカに住む、Omar El Accad(オマール・エル・アッカド)さんのインタヴューでした。
オマールさんは、最近、Twitterで書いたことの一部を題名にした本を出版しました。
Twitterは以下です。

One day, when it’s safe, when there’s no personal downside to calling a thing what it is, when it’s too late to hold anyone accountable, everyone will have always been against this
ある日、(ガザでの虐殺を)実際の名前で呼ぶ(虐殺を虐殺と明確に述べる)ことに何も個人的なリスク(=現在のようにガザの虐殺に反対したり停戦を求めることを表明するだけで仕事を失ったり、退学になったりする)がなく、安全になったとき、誰もの(加害者たち)責任を追及することには遅すぎるとき(=虐殺がすすみすぎて後戻りができない状態)、誰もが、自分たちはこれ(ガザでの虐殺)に常に反対していたと言うでしょう。

オマールさんは、1年半近くにわたり、毎日、虐殺の被害者であるパレスチナ人が自分たちの虐殺を世界に中継し、加害者であるイスラエル兵たちが自分たちの残虐な戦争犯罪を誇らしげに中継する現状の中での自分の無力さに対するいらだちや、西側政府や西側メディアの共犯性についても語っています。

オマールさんは、コンピューター学部卒ですが、オマールさんによると、「興味も適正もなく、何度も単位を落としては同じ授業に現れることを面倒に思った教授たちが受からせてくれて、奇跡的に卒業できたのだと思う」と言ってましたが、その間、大学の新聞をつくることに熱中していて、幸いなことにジャーナリストのインターンシップに通り、そのまま10年ジャーナリストとして働いたそうです。
オマールさんは、ガザでの報道についても、ひどく偏った報道、ことば・ジャーナリズムの悪用、目の前で繰り広げられる虐殺に何もできないことへの無力感や焦燥感もあったことから、自分にできること=書くこと、をすることにし、この本の執筆にいたったそうです。

ちなみに、オマールさん一家がエジプトを離れざるを得なかったのは、当時エジプト全域で夜の外出禁止令がしかれていたときに、大きな国際チェーンのホテルで会計士として働いていた父は特別な外出許可証をもっていたのですが、ある日、仕事から帰る途中に兵士に呼び止められ、外出許可証を見せたものの、それを目の前で破られ、そのうえで、外出許可証をみせろ、そうでないなら逮捕(←多くの人々が理由もなく政府や兵士によって消されていた時期)と言われ、このまま消されるのか、と思ったときに、たまたまその兵士の知り合いである同僚が通りがかり、家に帰ることを許されたそうです。
そのため、オマールさんの父は、このままエジプトにいるのは危険だと思い、さまざまな国々に履歴書を送り、とてもよい条件でカタールでの会計士の職を得たそうです。
カタールは約9割がカタール以外の国からきた移民で、オマールさん一家も会社がつぶれたり、政治的に不安定になればすぐにその国にいられなくなることをよく知っていたため、最終的にカナダに移民したそうです。
エジプトは民主主義で選ばれた大統領Gamal Abdel Nasser(ガマル・アブドゥル ナサール)さんが1950年代から60年代終わりまで、スエズ運河の国営化等、自国の資源を自国民の教育や生活の向上のために使う政策や、アラブ地域全体をまとめるような民主主義の動きをつくったことで、世界の覇権を握っておきたい西側諸国からの多くの介入を受け、弱体化しました。
これは、エジプトだけでなく多くの中近東やアフリカ諸国に起こったことで、西側諸国が自分たちの権力と既存特益を持ち続ける・これらの元植民地地域を搾取し続けるために介入して、その国の政治をとても不安定にし、経済的にも発展できないようにしたことで、多くの移民(マジョリティーは近隣国に難民や移民として移動)が発生しました。
ほとんどは、オマールさんの父のように、自国に残りたかったのに、残っていると死ぬ可能性が十分に高かったため、移民せざるをえなかった人々です。

オマールさんは、自身もジャーナリストだった背景から、イギリスやアメリカでのガザ虐殺の報道はとてもひどいレベルであることに憤りを覚えます。
たとえば、イスラエル兵が殺されたときには、尊厳をもったひととして扱われ、一人一人の名前や、生前はギターを弾くのが趣味だった等の長いインタビューが入ります。
でも、パレスチナ人市民がイスラエル軍やイスラエル兵士によって殺された時には、まったく報道されないか、加害者をわからなくするようなごまかしのことばを使った報道となります。

たとえば、4才の女の子が家族と一緒にいるところに、イスラエル兵がその子を狙撃し頭をうち抜いて意図的に殺したときの報道は以下でした。
「ある銃弾が車の中に向けて入り込み、4歳の若いLadyに衝突した」
アラビア語と英語の両方が母国語であるオマールさんにとっても、何度か読み返さないと意味が分からないような文章が並びます。
これは、偶然ではなく、故意に、加害者も加害も消し、被害者は自然災害で亡くなった若い女性(Ladyということばを使うことで、子供ではなく若い女性という印象をつくりだし読者のショックや怒りを弱める)という印象をつくりだしています。
また、戦争犯罪である、イスラエル軍による病院の爆撃もたくさん起きていますが、これも、以下のように報道されます。
「病院が燃焼した」
まるで、病院が自分で勝手に火を出して燃えたかのような印象をつくりだします。
ここでも、加害者のイスラエルの存在と加害が消されています。

イギリスのニュース・チャンネルのITV4のインタヴューでは、インタヴュワーから「(オマールさんがパレスチナ人虐殺ということばを使っていることについて)イスラエルは核兵器をもっていて、虐殺しようと思えば核兵器を打ち込めばよかっただけなのに、それをしていないのだから、虐殺というのは大げさで事実からかけ離れているのでは(※イギリスではパレスチナ人虐殺ということばを禁止しているメディアも多い)」といったよく出てくる心無い、かつ国際法での虐殺の定義を故意に無視する質問に対して、オマールさんは、明確に、殺し続けて最終的に残されたのが一家族だった、というところまでいかないと虐殺とはよべない、とするのであれば、そこにはヒューマニティーはあるのか、といった内容の切り返しをしていたと思います。
ちなみに、イギリスは外務大臣も人権弁護士というバックグラウンドでありながら、国際法を無視して、「ヨーロッパでのユダヤ人虐殺のホロコーストのときのような数の人々が死なないと虐殺とはよべない」等、イスラエルをかばい、アメリカ側につくような発言をしていますが、ミャンマーでのロヒンギャ虐殺については、人数自体は多くないにも関わらず、虐殺だと明確に述べ、ダブル・スタンダードだと批判されています。
イスラエルとパレスチナ人との関係になると、事実を曲げて報道することは、西側政府、主要メディアでは起こり続けています。
メディアには、正しい情報を伝える責任があり、虐殺を助長するような報道をするのは戦争犯罪となる可能性もあるものの、現在も、BBCのような国営放送でも、インタヴュワーは、イスラエルの味方をする人には、嘘をついているのが明らでも、なんのチャレンジもせず、逆にパレスチナ側のひとがでてきた際には、「ハマスの行動を糾弾しますね」と必ず最初に聞き、それにYesと答えないと、テロリストを支持するひとと決めつけられ、まともに話ができません。
ハマスは、イスラエルのパレスチナ地域占領に対する抵抗組織であり、軍隊組織もあるものの、政治組織や、人々の日々の生活や教育を助けるアドミニストレーション組織、医療や健康を担当する医療組織もある複雑な組織で、軍隊機能にまったくかかわらない医師やエンジニア、教師といった多くの民間の人々も含まれています。
また、国際法でも、占領下にある人々には、武力を使っての抵抗が認められていることは覚えておく必要があります。
ただ、10月7日のハマスのイスラエルに対する襲撃で、民間人を殺したり人質にとったことが戦争犯罪であるのは明らかです。
ここでも、イスラエルが70年以上にわたって戦争犯罪、国際法違反をパレスチナ人に対して行っていることについては、完全に無視され、もともとの原因はここなのに、それを話そうとする人たちは、テロリスト支持者というラベルを貼られます。

現在では、西側諸国でも尊敬されている南アフリカのネルソン・マンデラさんは、アパルトヘイト白人政府に対して、武力を使った抵抗も試み、西側諸国から長い間、テロリスト認定されていました。
アパルトヘイト白人政府は、平和にマーチをしていた黒人の子供たちを大量殺人したり、長年、黒人に対しての残虐な暴力や拷問、殺人を自由に行い、不正義に黒人を大量に殺してもなんの責任も結果もない時代が長く続き、西側諸国も、それらの不正義や国際法違反を十分に知りながら、長い間サポートしていました。
ここには、アパルトヘイト白人政府が行っていたことは、西側諸国がもともと植民地の原住民たちに対して行ってきたことと同じで、「すべてにおいて優性な白人・キリスト教徒である西ヨーロッパの人、あるいは祖先とする人々が、すべてにおいて劣勢で野蛮人である有色人種・非キリスト教徒から土地を奪い資源を奪うのは当然(彼らは頭が悪くて、資源や土地の使い方を知らないから、そこに長年住んでいたからと言って所有権はなく、優勢な自分たち白人・キリスト教徒が正当な資源や土地の持ち主となるのは当然)」で、原住民には抵抗や自主権を求めることは許されず、彼らに許されているのは、植民地宗主国のいいなりに奴隷になっているか、殺されるか、です。

また、上記のITV4のインタヴューの中でも、インタヴュワーから、「あなたの著作の中ではハマスへの糾弾が少なくて(←事実ではない)、10月7日にイスラエル人を虐殺した(←パレスチナ人虐殺とは絶対にいわないけれど、イスラエル人が殺された場合は、どんな人数でも状況でもイスラエル人「虐殺」ということばを使う)を殺したハマスは完全に邪悪でモラルとして完全に間違っていることは明らかなのに、あなたはそれを(完全に間違っていて邪悪だと)判断する用意はできていないのでしょうか。」と糾弾するような質問を受けます。
オマールさんは、冷静に「それは、とても興味をそそる質問です(※皮肉も入っていると思います)。私の著作では9割ぐらいはハマスを明らかに非難しているにも関わらず、残りの1割でハマスを非難する文章がないということで、ハマスを十分に非難していないということになるのは、私が行っている不快・攻撃的な行動というのは、パレスチナ人の苦難を気にかけることだという結論に導かれます。」と答えています。

オマールさんは、西側社会に長く住み、アメリカで作家として働き税金を納めていて、アメリカ国民の税金(オマールさんが払っている税金も含む)がガザでの虐殺に使われているので、自分自身もガザでの虐殺に関与していると自覚しています。

多くの西側の人々は、「これは、とても複雑な問題だから」といったことばを隠れ蓑に、知らんぷりを決め込みます。
でも、これはとてもシンプルな問題です。
70年前に西側諸国のバックアップを受けて(ヨーロッパではユダヤ人を数世紀にわたって迫害し続けていて、ユダヤ人がヨーロッパ大陸から出ていくことに賛同)、ヨーロッパ大陸からきたユダヤ人たちがSettler Colonialism(セトラー・コロニアリズム/入植者植民地主義)でユダヤ人至上主義の国家をつくることを目的に、歴史的パレスチナ地域に大量入植し、原住民であるパレスチナ人から土地や家、命を奪い追い出し、その後も現在にいたるまで、土地や資源を盗み続け、パレスチナ人を殺し続け、どんどんパレスチナ人が住める・動ける地域を小さくして、パレスチナ人たちが尊厳をもって生きることができない状態にしていることが問題です。
西側の人々が目をそむけたくなるのは、特にヨーロッパ大陸(ロシアや東ヨーロッパも含めて)だと、いたる場所でユダヤ人迫害を行ってきた歴史があり、ユダヤ人に対して罪深い気持ちをもっていることと、第二次世界大戦後は、以前はヨーロッパの白人・キリスト教徒がマジョリティーで優れているとされていた中で、Others(アザーズ/ほかのひと、自分たちとは違う人々)として差別・軽蔑され続けていたユダヤ人(ヨーロピアン系ユダヤ人は数百年にわたってヨーロッパにいたので、見かけは白人にしかみえない場合が多いーただ「白人」や「黒人」という区分け自体が偽科学で、遺伝的には99パーセントがみんな同じで、皮膚の色素の違いという意味をなさない分け方をする植民地主義を正当化するためにでっちあげられたもの)は、ジュデオ・クリスチャンで、自分たち西側諸国の文明や血を同じくするもの、といった新たな考えが浸透して、ユダヤ人たちもそれを利用して、文明化されていない野蛮なアラブ世界で、西側文明をひろげる小さな拠点として西側諸国のサポートを勝ち取った面もあります。

オマールさんは、ガザでの虐待を見て見ぬふりができるのは、西側に住んでいることには特権があり、無関心・見ないふりをすることになんの結果もないからだとしています。
逆に、もしパレスチナ人への虐殺について反対の声をあげると、仕事を解雇されたり、退学させられたりします。
オマールさん自身も、多くの講演をキャンセルされたり、映画化のプロジェクトをキャンセルされました。
でも、オマールさんは、多くのパレスチナ人が虐殺にあっている今、それはとても小さなことだとしています。
この「みないふり・無関心でいること」を選択するとき、それは、見ないふりをする筋力を日々、鍛えていることになります。
でも、どんなにこの筋力を鍛えていようと、ヒューマニティーや魂をもった私たちには、どこかで、「もう見ないふりはできない」という限界値がくるはずです。
オマールさんにとっては、すでにこの限界値をこえているので、自分への経済的・作家としての評判等の悪影響があろうと、パレスチナ人虐殺に対して反対の声をあげることは、自分の魂とヒューマニズムを守るために、選択の余地がないことだとしています。
自分の魂と引き換えにできるものはありません

虐殺は人類のなかでも一番重いヒューマニティーに対する犯罪ですが、性暴力(ハラスメントや痴漢、盗撮やストーキング、性的な冗談や話をする、自分の欲望を満たしたりストレスを晴らす性的な道具として女性や子供を扱うー漫画や合成画像等の実在しないひとも含む)を受けている被害者を、見えているのに見ないふりをして過ごす日々が続き、見ない筋力・何事に対しても無関心でいる筋力を鍛え続けると、それと同時に、自分自身のヒューマニティーも魂もすりへり、最終的には、目の前で誰かが殺されても何も感じないような状態になることも可能なのかもしれません。
このヒューマニティーを失っていくことは、初期のうちに気が付いて止める必要があります。
ヒューマニティーや魂がすりへった人々が多い社会は、誰にとっても、特に弱い立場におかれる子供(男子・女子)や女性には、とても危険な社会となります。
加害のターゲットになっていない、という時点で、すでにあなたには特権があります。
被害者の苦しみを無視せず、自分にできることをする(たとえ、それが被害者が一人になったときに、大丈夫かどうか声をかけたり、加害者が被害者に近寄ったときに被害者に話しかけて加害者を引き離す等の小さなことだったとしても)のは、相手にとってだけでなく、自分のヒューマニティーを守るという意味でもとても大切です。
家父長制の社会構造を壊さない限り、性暴力がとまることはありませんが、性暴力を止めるためには社会全員の力が必要で、被害者の苦しみから目をそらさず、構造に鋭く気づき、自分自身がこの構造を保持する・強固にしている役割を果たしていないかをふりかえり、自分自身が内在している家父長制の考え方・行動に気づき、周りにも働きかけ、協力し続けていくことが大切です。
家父長制は、一見強固で壊れることはないように見えるかもしれませんが、多くの人々が目を覚まし、この家父長制をあがめることがなくなれば、そのうち壊れます。
家父長制で既存特益をえている人々は、自分たちの特権が減ることに恐怖や怒りを感じるかもしれませんが、特権が全てなくなり自分たちが下々に追いやっていた人たちにしていたことと同じ悪い扱いを受けるというわけではなく、ほかのすべての人々と対等・同等になるだけなので、意外と気持ちがラクになる部分もあるのかもしれません。
少なくとも、下々に追いやった人々を、いつまでも押さえつけていなければ、自分がしているのと同じように悪く扱われるに違いない、といった恐怖や罪悪感はなくなるでしょう。 

Yoko Marta