地球上の誰もが、ただ存在するだけで、貴重な命の価値を同等にもつ
イギリスのロンドンにスーツケース一つでやってきて、語学学校に二か月通って日本に戻って働く予定が、ロンドンでITエンジニアとしての労働許可をえて数年働いたあと、市民権をとり、25年たちました。
ヨーロピアンや地球上のさまざまな地域の知り合いや友人から、多くのことを学びました。
その中でも、大きいのは、「ヒューマン・ライツ(日本語の「人権」とは、大きく違う意味)」を知り、実践したということです。
深刻なレヴェルの虐待家庭で育ったこと、特に子どもと女性のヒューマン・ライツがほぼ無視されている日本という環境で育ったことで、さまざまな場面で、ヨーロピアンの友人が、ときには法律の力をつかいながらも、不正義と闘うのを目の前にして、自分がいかにヒューマン・ライツについて無知であったかに気づきました。
マイルド・デプレッション(マイルドなうつ)ということで1年ほど、心理カウンセリングに通ったときに、子どもの頃の虐待、成長してから受けた多くの性暴力が、いかにデプレッションにつながったかに気づきました。
ヒューマン・ライツを知っていれば、加害の責任をきちんと加害者におくことができ、自分を責めて苦しむことはなかったか、少なかったと思います。
ただ、個人的な経験として、見知らぬ男性から性暴力を受けたとき、警察では、私が地域では一番よいとされている大学を卒業したこと、ITエンジニアという給料がいいと思われている職業についていることで、「男性の輝かしい未来を盗んだのだから、復讐されて当然」といわれ、訴えを取り下げることを強要されました。
きちんと法律にそって正義を求める行動をとったとしても、司法・警察が女性にバイアスをもって、正義を行わないケースを経験したことは、私だけではなく多くの日本の女性たちが経験していることだと思います。
それでも、なんとか持ちこたえて、犯人が見つかれば訴えることを主張し続けたことは、ショック状態で性暴力の後遺症に悩まされる中でも、自分なりによくやったと思っています。
今でも後遺症は残っていますが、常に恐怖の中に暮らしている状態からは回復し、どういうとき・場所でパニックになる可能性があるか、パニックが起こったらどうするかなどを学び、後遺症はなくならないだろうけど、ともに生きていけるレヴェルに落ち着いています。
調子がいいときも、調子がいいときだからこそ、そのレヴェルを保てるよう、ジムやFeldenkrais(フェルデンクライス)、瞑想といったことは続けています。
日本だと「昔のことなのに。。。」という心無いことをいう人たちもいるかもしれませんが、人間の心身は複雑で、人によっても影響の仕方は違うし、自分の感じていることは、誰がなんといおうと正当なものです。
こういうことを言う人は、加害者をかばいたいのか、加害の影響で苦しんでいるひとがいることが耐えられない・信じたくないひとなのかもしれません。
私の心理カウンセラーは、最初の半年は男性白人イギリス人、次の半年は女性白人イギリス人で、最初は私の日本語アクセントのある英語を馬鹿にされるんじゃないか、と心配しましたが、全然そんなことはなく、相手を思いやるヒューマニティーは、人種もことばも関係ないことに改めて心身ともにしみいりました。
イギリスも、数十年前だと、子どもの保護やヒューマン・ライツへの法律やひとびとの意識は、現在と比べるとずいぶん低かったそうですが、私の子どもの頃のふつうの日常生活を話すと、「それは違法で、たとえ1980年代でも、すぐに児童保護がはいって、親とは引き離され、親は牢獄いき」と言われたことが何度もありました。
かつ、私が普段親にされていたようなことを行って逮捕された保護者が「児童虐待を行った犯罪者」としてニュースにのぼるときもあり、苦しかったのは私の感じ方がおかしかったからではなく、環境が異常であり、まともな感覚やモラルを持ち続ける強さがあったからこそ、苦しんだのだと気づきました。
イギリスやヨーロッパだと、子どもたちはヒューマン・ライツについて学校でも学んでいるし、完璧な家庭は存在しないけれど、ある程度子どもの心身の安全や健康を守れる保護者がいる場合、家庭でもヒューマン・ライツを実践していて、自分のライツはほかの誰とも同等で、お互いのライツを守りながら、それがぶつかるときには、話し合って、お互いが生きていけるポイントで折り合うことを学んでいます。
ヒューマン・ライツを子どものころに知っていれば、「子どもは親の所有物、親の延長(だから殴ったりけったり、怒鳴ったり、何をしてもいい等)、生まれた時点ですでに親から大きな借金(恩)を背負わされていて自分の人生はそれを返すためだけに存在する」といった無意識・意識的な刷り込みが起こることを防いで、もっと効果的な抵抗ができたかもしれないし、暴力が当たり前の家庭で母親が共犯となって子どもを混乱させる家庭であっても、少なくとも、彼ら(たまたま生まれ落ちた場所での血縁上の親)がおかしい、と分かっていることは、自分を大きく助けたと思います。
私のまわりには、国籍も人種も関係なく、たまたま生まれ落ちた先の親や兄弟・姉妹とまったくコンタクトをとらない人々もいますが、誰も、その人たちを責めたりジャッジしません。
完璧な親はいませんが、子どもにとって一番危険な存在は親であることが多い(子どもへの虐待を行うのは、保護者の立場にあたるひとが圧倒的に多い)、ということは誰もが理解しています。
子どものヒューマン・ライツでは、上記は既に織り込み済みで、子どもにとって危険となる親からどう子どもを守るか、ということも含まれています。
たまたま虐待家庭に育つと、多くの後遺症にも悩まされ、さらに、大人になってからも親から給料をとられたり、脅されたりする場合もありますが、ヒューマン・ライツを知っていれば、自分を守ることができる確率が高くなります。
どういった機関に助けを求められるかを知ることも、自分を守るために必要ですが、最初に、地球上に生きている誰もがもっている、自分からすらもとりあげることのできないヒューマン・ライツをもっている、ヒューマン・ライツとは何か、ということを熟知していて、自分のヒューマン・ライツが侵害されていることに気づく必要があります。
また、自分のヒューマン・ライツを侵害することは、誰であっても、どんな状況でも許されることではなく、それに対して抵抗・抗議するライツがあり、場合によっては司法に訴えるということも必要であることを知っていて、実践できるようにしておくことが大切です。
頭でわかっていても、行動が追いつくには、練習も時間も必要です。
でも、まず知ることから始めなければなりません。
私自身、虐待家庭に育って、加害をするようなひとをボーイフレンドにはしない、と思っていたにも関わらず、つきあっているうちに束縛が強くなり、耐えられなくなり別れ話をしたものの、受け入れられず、ストーキングにつながり、とても怖い思いをしたこともありました。
虐待されていなかったひとも、ストーキングにあうことはありますが、私の場合は、虐待家庭に育ち、健康な人間関係をみたことも経験したこともなかったことが、大きく影響したのではないかと、心理カウンセリングを受けていた時に気づきました。
もちろん、悪いのは100パーセント加害者です。
本当に心からそう思えるようになるまでには、心理カウンセリングや友達からのはげまし等、時間がかかりました。
ヒューマン・ライツを知っていれば、加害者の気持ちをくんで自分が悪いと考えて悩んだりすることはなかったと思います。
加害者の言動をコントロールできるのは加害者だけで、責任は100パーセント加害者にあります。
ヒューマン・ライツに関しては、ヨーロピアンの友達から教えてもらったり、彼ら・彼女らの行動から学んだり、実際に法律専門家(イギリス人と英語で)と話す機会に学んだり、本(英語で英語スピーカーに向けたもの)を読んだりしたのですが、日本語で資料を探していると、日本という文化の土台に、日本の文化や慣習とは大きく相いれない部分の大きいヒューマン・ライツを捻じ曲げて解釈したものが多いことに気づきました。
そもそも、「ヒューマン・ライツ」を、既に存在して、まったく意味の違うことば「人権」と訳したことが問題だったのだとは思うのですが、少しでも、ハラスメントや虐待にあいやすい若い人や、虐待の後遺症などで、自分のライツを知っていても実践・行使できなくて、不当な扱いに耐えることしかないと思っている人などの助けにもなればと思い、Blue Skyに、ヒューマン・ライツに関して、ポスティングしています。
@thegreencatalyst.bsky.social
ヒューマン・ライツを知ることは、地球上の誰もが、民族やことば、人種や経済力、仕事をしているかどうか、身体に不自由がないかなどに全く関係なく、存在しているだけで、誰もが同等の命の価値がある、というヒューマニティーの原則を心身共に納得していることになります。
そうすると、誰もが、相手のバウンダリーや尊厳を自然と大事にする社会になると思います。
地球上のどの地域でも、この概念を実践するにはチャレンジがありますが、日本や韓国・中国のように、社会の風潮に儒教の考え方(ひとは生まれつき、社会での位置が決まっていて、そこから出ないこと、自分より上位のひとびとやグループには絶対逆らったり抵抗しないこと(男性はピラミッドの一番上、女性は一番下)ーこの決められた仕組をゆるがすようなことをすれば厳しい社会的制裁を加えられる)が強く存在することは、ほかの地球上の地域より、チャレンジを大きくさせると思います。
地球上のほかの地域でも共通にもっているチャレンジは、家父長制(女性や子どもは男性の所有物で、エリート男性は自分の能力を完全に発揮できるよう社会がサポートするが、それ以外の男性の機会はとても限られていて、女性となると、男性のために子どもを生み育てることと男性の世話をするための道具のような存在)です。
儒教の考えも家父長制も、人類の歴史のどこかで人工的につくられたもので、だからこそ、変えることは十分に可能です。
「誰かが生まれつき偉い/優遇される立場にある/選ばれた特別なひとびと」という考えがあると、「自分たちは特別だから、それ以外の弱いひとたちにはなんでもしていい特権がある」という考え・行動にもつながりかねません。
私たちは、生きて、存在しているだけで、誰もの命が同等に大切なのだ、ということを常に意識しておくことは大切です。
たとえ、そう思わないひとがいて、「自分が上で、あなたは下ーだから、いう通りにしろ、小さくなって自分がいうことをほめまくれ」という態度を取られても、小さくなる必要もなければ、ほめ続ける必要もありません。
即時に命の危険がある場合は例外ですが、機嫌が悪くなったり、悪く扱われるかもしれませんが、「あなたが下である」ということを受け入れる行動を取ると、状況は悪化する可能性が高くなります。
間違った考えで生きているかわいそうな人ですが、それを助長することは避けられる限り避けましょう。
最近、Substackで見ていた中で、ヒューマン・ライツについて、とても共感できるノートがあったので、簡単に訳しています。
地球上にいるひとびとは、誰でもヒューマンライツをもつに値します。
なぜなら、「ひと」だからです。
理由は、いりません。
存在しているだけで、ヒューマンライツに値するのです。
多くの人たちは、以下のような理由をあげるかもしれません。
「私たちの家を建てる人だから」
「彼らは、とても勤勉だから」
「彼らは、経済に貢献するから」
ポイントは、彼らは存在しているということです。
(経済の)生産性によって、「ひと」をはかることをやめましょう。
これらの考えは、capitalism (キャピタリズム/資本主義)からくるもので、justice (ジャスティス/(普遍の)正義)からではありません。
ヒューマニティーを(なんらかの行動や労働によって)獲得する必要はありません。
自由、安全、尊厳に値するために、(経済や社会などにとって)「絶対不可欠」になる必要はありません
(誰もが同等にもつライツの)保護をされるために、(経済や社会にとって)役立つ必要もありません。
難民、不法滞在のひと、国籍のないひと、拘束されているひと。
誰もがライツをもっています。