信仰の力 ー 正義は行われるという確信

Yoko Marta
05.08.26 09:44 AM - Comment(s)

信仰の力 ー 正義は行われるという確信

2026年7月2日は、イスラエルによるガザでのパレスチナ人虐殺が始まってから1000日目でした。

西側政府(日本も含む)が、パレスチナ人虐殺への積極的・消極的な加担・協力を続ける中、イスラエルは、毎日、子どもや女性を含むパレスチナ人市民たちを直接的・間接的に殺し続けています。

国際司法裁判所は、世界中の全ての政府に対して、「イスラエルによるパレスチナ人に対する虐殺を防ぐために最大限の行動を取ること(=イスラエルへの経済制裁・武器輸出入の禁止・外交の関係を断つー自国のイスラエル大使の追放等)」を宣言しています。
国際司法裁判所での最終判決には数年~10年以上かかるため、完全な判決が出るまでは、何もしなくていい、という西側政府の言い訳は通用しません。
また、国連では、専門家たちから、すでにガザでは虐殺が起きているとの報告が発表されています。

そのため、イスラエルに対して、武器や武器の部品(レーダーやレーダーの部品なども含む)、武器をつくるための工場のロボットなどの輸出をしないこと、イスラエルに対して経済制裁を行うことなどは、世界中の政府に課せられている最低限の義務ですが、ほとんどの国々の政府はこの義務を怠っています。
国際刑事裁判所からは、イスラエルのネタニヤフ首相と前国防相のヨアヴ・ガラントには逮捕状が出ており、自国境界に彼らが入れば、逮捕して、国際刑事裁判所に引き渡す義務がありますが、西側の政府のほとんどがそれを完全に無視しています。
アメリカ合衆国では、この虐殺が行われている間、虐殺の責任者であるネタニヤフ首相を、アメリカ国会へと何度も招待し、国賓扱いで、大歓迎し続けているほど、ひどい状態です。
イギリス政府も、似たり寄ったりです。
直接、虐殺の指示を出しているイスラエル軍隊高官たちをイギリスでの会議に招き、彼らが国際法で逮捕されないよう、政治的な免除を与えるという特別扱いをしています。
また、2000人以上のブリティッシュ国籍のひとびと(ほとんどがイスラエル国籍との2重国籍で、ほかの国の国籍もあわせもつ多重国籍者も含む)が、ガザでの虐殺が始まって以来、わざわざイスラエルへ渡航し、イスラエル軍で従事したことが判明していますが、イギリス政府・イギリス警察は、調査も尋問も行っていません。
この中には、ガザでの虐殺へ直接加わっていることをソーシャル・メディアに自慢げに堂々とあげていたブリティッシュ(既にイギリスに帰国済み)も含まれていて、国際法を専門とする機関や団体が、彼らの逮捕を求めて、国際的な基準に従った証拠をイギリス警察・政府に提出していますが、現在のところ、イギリス政府は、それらについて調査も逮捕も行わない、という姿勢を取り続けています。
虐殺を行ったひとびとが、自分たちの近所に何食わぬ顔で暮らしていたり、同僚や上司だったり、医師や教師、牧師のように市民たちに大きな影響を及ぼす地位についていることは、社会の安全性への大きな問題と多くの市民たちは感じています。
多くの市民たちが、ガザでの虐殺が始まって以降、イスラエル軍へ従軍したブリティッシュに対して、虐殺に加担したかどうかを警察が調査を行うよう、強く求め続けています。

ガザだけでなく、イスラエルが違法支配・占領している東エルサレム地域・ウエストバンク地域にもエスニック・クレンジングは広がり、先日(2026年7月5日)には、ウエストバンクの難民キャンプで、パレスチナ人の家族(子どもも含む)が乗っていた軽自動車が、イスラエル兵士によって止められ、この兵士はスタングレネード(閃光手りゅう弾)を車の中に投げ入れ、家族が車から出られないようにドアを押さえているところが報道されています。
これは、特別に残虐な例ではなく、日常的に起こっていることです。
パレスチナ人の子どもたちの頭や首、心臓を狙ってイスラエル兵が直接狙撃、或いは、精確な射撃が可能なドローン(操作・射撃を行うひとには、とても精度の高い映像機能により、何を標的にしているかは明確に知っている)で同様に子どもたちを狙撃していることが、国際的な機関からガザへ派遣された多くの医師たちからも報告されています。

2023年10月7日から2025年10月7日の2年間の間だけでも、ガザでは、二万人以上の子どもたちがイスラエルによって殺され、4万4千人以上の子どもたちがイスラエルによって負傷させられました。
ガザは、世界で一番、アンピュティイー(手・腕・足のいずれか、複数、或いは全てを切断されたひと)の子どもの数が多い地域となりました。
死者・負傷者の数は、厳格な方法で確認された人数で、家族全員が殺されて瓦礫の下に残された人たちや、病院へ運び込むことが不可能だった人たち(上記の人数カウントに含まれていない子どもたち)を含めると、膨大な人数にのぼると見られています。
少なくとも、一時間に一人の子どもが殺されていることになります。
その上に、停戦条件の中にあった、医療に関する用具や薬をガザに運び込むこと、緊急で生死を争う病気・けがを負ったひとびとが隣国などで治療を受けることを可能にするよう関所を開くこと、仮住居などの運び込み、(瓦礫を取り除くため、病院や水道施設の再建のための)重機の運び込みなどを、イスラエルは一方的に無視し、本来なら死なないで済む病気やけがで、多くのひとびとが毎日、命を失っています。
この2年の間、イスラエルは、ガザの病院を徹底的に攻撃・破壊し、医療従事者・救急隊員を狙って殺したり、誘拐して牢獄に閉じ込め、拷問で殺し続けているため、イスラエルの封鎖にも関わらず、教育レヴェルが高く、医師や医療従事者が多かったガザも、病人やけが人を治療することは、ほぼ不可能になっています。

上記のように、イスラエルが、計画的にパレスチナ人が生きることが不可能な状態をつくりだし、間接的に殺されたひとびとの数は、上記のような直接的な殺人の人数には入っていません。
この間接的に殺されたひとびとの人数を知ることは難しいとはいえ、いったん虐殺がおさまれば、数年後には明らかになるとみられていて、その数は膨大であることが既に予測されています。

アメリカは、イスラエルとパレスチナ抵抗組織との停戦条約の保障国なので、本来なら、イスラエルが毎日停戦条約を破っていることを止める義務があります。
でも、完全にその義務を怠っています。

歴史的パレスチナ地区の隣の国レバノンでも、イスラエルは長年、侵略と占領を繰り返し、アメリカが保障国として合意した「停戦」中にも関わらず、イスラエルは、毎日停戦条約を破り、4000人以上を殺し、1万2千人を負傷させ、100万人が家に戻れず、路上にテントを張って過ごしたり、厳しい生活を余儀なくさせています。
現在も、毎日、レバノンでは、子どもや女性を含む市民たちが殺され続けています。
イスラエル政府は、レバノン抵抗組織を狙った攻撃であるとしていますが、圧倒的な数の市民が殺されていることからも、これが事実でないことは明らかです。

アメリカは、この停戦の保障国であるにも関わらず、イスラエルがレバノンで行っているエスニック・クレンジングを止める義務を完全に無視しています。

レバノン政府は、レバノン南部をイスラエル攻撃から守るどころか、レバノン国軍を北部へと退避させ、レバノン南部市民たちは、政府からの防御がないまま取り残されました。
ほかの地域へと逃げることが、身体的・経済的に不可能なひとびともいるし、ほかの地域へと逃げても、避難場所が用意されているわけではなく、イスラエルが、レバノン南部の住民を泊めている場合は、テロリストをかくまっているとみなして攻撃する、と明言していたこともあり、たとえ南部の住民たちにシェルターを与えたいひとびとがいても難しくなり、たとえアパートメントを借りられたとしても、通常の5倍以上の家賃を要求されたりして、屋根がある場所を見つけることは難しいひとが多い状況です。

レバノンの住民たちが、イスラエルの侵略・攻撃(無差別大量殺人も含む)に対して、少しでも抵抗を示すと、アメリカ政府とイスラエル政府は、それを停戦に対する違反行為として大きく糾弾し、イスラエルが「自衛」するのは、停戦条約で約束されていることだと、イスラエル政府の違法侵略・違法攻撃を弁護します。
レバノンの住民たちの自衛権や、エスニック・クレンジングにあわない権利は、完全に存在しないことにされているのは、ガザを含む歴史的パレスチナ地域のパレスチナ人に対してと同じです。

南レバノンでは、今回のイスラエルによる侵略・戦争で家を完全に破壊されたひとびとも多いのですが、これが初めてではなく、3回目、4回目(この人たちが生きている数十年の間だけでも)となる人たちが多いそうです。
それでも、彼らは、ガザのパレスチナ人たちのように、どんなに多くの人々が殺され、負傷させられても、何度でも自分の土地に戻り、家を自分たちで再建し、畑に戻って耕し、店を再び開き、コミュニティーの一員として生き続けることを諦めません。
これは、彼らの最大の抵抗です。

アメリカ政府が条約を破ることは、アメリカ合衆国の建国以来、典型的なパターンで、全く珍しいことではありません。

アメリカ合衆国の歴史は、西ヨーロッパから侵略してきた白人キリスト教徒たちが、原住民たちを暴虐に追い出し、土地や家・資源を盗み取り、自分の土地や家・慣習を守ろうとする原住民たちが正当な抵抗を行うと、それをテロリズム行為だとして、大量殺人・エスニック・クレンジングを行い、自分たちこそが先住民だとするところから始まっています。
コロンブスは、1492年にアメリカ大陸を「発見」したわけではなく、そこでは原住民のひとびとが、数世紀にわたって、豊かな文化を築いていたことを覚えていることは大切です。
西ヨーロッパが帝国主義・帝国主義のアレンジメントを必要とする資本主義をおしすすめ、地球上のほとんどの地域で虐殺、エスニック・クレンジングを行い、富を西ヨーロッパに吸い上げる仕組みをつくるまでは、アジア・アフリカ・西アジア地域が世界の経済や文化の中心として豊かな経済・文化を築いて、同等な立場で交易を行っていた時代が長くあり、ヨーロッパは比較的貧しい、周縁の小さな一地域でしかありませんでした。

アメリカ合衆国は、その後も、生き残った原住民たちが、侵略者である白人・キリスト教徒たちとなんとか平和に共存できるよう最大限の譲歩を行った協定を破り続けました。
原住民たちを、どんどん生きることが難しい狭い地域に閉じ込め、差別を行い、貧困に陥らせるような仕組を続けています。

これは、イスラエルの歴史ともよく似ています。

アメリカ合衆国が「民主主義」だというのはプロパガンダだと言われるのは、白人(=アメリカ大陸への侵略者であるヨーロッパ白人キリスト教徒の子孫たち)の間でだけ、さまざまな権利や自由が保障され、この「白人」グループに入らないとみなされた人々には、最低限の生きる権利ですら実際には保障されていないことが明らかだからです。

でも、この侵略者の子孫であるひとびと(=ヨーロッパの白人・キリスト教徒の子孫たち)は、自分たちの歴史はほぼ知らず、自分たちは世界に文明や経済発展、民主主義を与えている、素晴らしいひとびとであり、自分たちが王者として世界を支配・コントロールしているのは世界のひとびとのためであると、意図的な無知さで信じ込んでいます。

だから、彼らは、ガザやレバノンといったグローバル・サウスのことを、大きく誤解して、一方的な解釈をします。

西側では、この虐殺が続く中、ガザのひとびとは、どうやって生き抜いているのか、と疑問を投げかけます。

背景として、西側では、個人レヴェルだけでなく、教育機関や政府機関・司法機関などの大きな仕組みの中で、非白人・非キリスト教徒への強い偏見が埋め込まれています。

そのため、非白人であるガザの女性たちに対しては、西側のひとびとや機関は、以下のような偏見から始まることには、留意しておく必要があります。

非白人・非キリスト教徒の女性たちは、知能が弱く、「正しい・的確な」判断ができず、主体性もゼロで、野蛮な(=非白人・非キリスト教徒)男性に抑圧されていて、賢くモラルの高い白人が救わなくてはならない存在。
そのため、白人が彼女らを教育・指示・命令を出し、その通りに彼女らが動くようにしなければならない。
それは慈悲で、賢くモラルの高い白人に課せられた重責。
ここでいう「正しい・的確な」判断とは、西ヨーロッパの文化・慣習と同じでなければならない、ということです。
ヴェールを被る・肌をやたらと見せないようにする慣習といった、表面上のことだけが、ターゲットになります。

ここでは、女性が尊厳をもって自分の可能性を最大限に生かして生きられること(女性の教育の高さ、医師・科学者やエンジニアといった西側ではいわゆる男性が大多数を占める職業や学問分野に占める女性の多さ、アカデミアや政治・ジャーナリズムなどで権威をもった地位を占める女性の多さなど)は、議論にもあがりません。

パレスチナ人だけでなく、イランでも、女性の教育の高さ・医師やエンジニアに占める女性の割合は、いわゆる先進国である西側よりもずっと高いことは、公式な統計からも明らかであるにも関わらず、西側のフェミニストなども含めて、これらの事実は無視されます。

上記は、表面的で、慣習であるヴェールを被っているかどうかよりも、もっと重要です。

イランでは、国民が民主的に選んだ、とても人気のあったモサデグ首相が、アメリカ政府とイギリス政府が仕組んだ軍事クーデターで取り除かれた後、アメリカ・イギリスの傀儡政権であるシャーが軍事独裁制を行い、そのときには、西洋化政策の一環として、警察が道行く女性たちのヴェールを無理やりひきはがすという行為を行い、そのせいで、大多数である労働者階級の女性たちは外出することを恐れ、女性の識字率が異様に低い(田舎では女性の識字率が30パーセント程度)時代をつくりだしました。

とても少数のエリート階級に所属する女性たちを除いては、ヴェールをかぶる慣習は、尊厳や自由を妨げているということを意味せず(ヴェールをひきはがされることが尊厳や自由を妨げる場合もある)、女性が自分の能力にあった教育を受けることができ、能力や自分の好みにあった職業や役割につき、自立して尊厳をもった人生を送れることのほうが、ずっと重要なのは明らかです。

また、西ヨーロッパの白人・キリスト教徒が西アジアやアフリカ大陸に侵略・占領を行った時代には、西ヨーロッパの白人・キリスト教徒は、肌をみせない厳格な服装規定を守っていて、暑い気候にあわせた服装をしていた原住民たちを、裸(に近い恰好)で歩いている野蛮人だと馬鹿にしたことも覚えておく必要があります。

彼らは、植民地で、自分たちと同じ服装(肌を見せない)を原住民たちに強制しました。
この歴史をすっかり忘れて、現在は、西ヨーロッパのように、過剰だとも思えるレヴェルで肌を見せる服装をするのが、女性の「自由」だとするのは、皮肉なことです。
「自由」を持ち出すのであれば、ヴェールを被る自由も、被らない自由も尊重されるべきです。
また、ここでは、石油・ガス・鉱物などの資源を、原住民であるひとびとから取り上げて西側の政府・機関・企業がコントロールすることも含みます。なぜなら、彼らは愚かで、地球上の誰にとっても重要な資源の管理は任せておけない、というこじつけです。

この「オリエンタリズム」は、日本を含むアジアのひとびとにも適用されます。

ガザ出身のパレスチナ人女性ジャーナリスト、Huda Skaik(フダ・スカイク)さんは、このナンセンスな西側のレンズだけを通してみる(想像・偽造された)パレスチナ人の印象について、大きな「No」を突きつけます。

フダさんのSubstack(サブスタック)の記事のタイトルは、「Faith Beyond Trauma(トラウマをこえる信仰・信心)」です。

フダさんは、西側の多くのひとびとが、2年以上にわたって続く、イスラエルによるパレスチナ人に対しての虐殺、エスニック・クレンジングについて、「パレスチナ人はどうやっていまだにパレスチナの地に残り続けるのか/どうやって生き延びているのか」という質問に対して、それは「信仰」で、西側のひとびとは理解できないとしています。

この質問には、ここ数年だけでなく、100年近くにわたる、イスラエルのセトラー・コロニアリズム(入植者植民地主義)で、多くのパレスチナ人が祖先の地を虐殺やエスニック・クレンジングで追われ、たとえ歴史的パレスチナ地域になんとか残ったとしても、祖先の地で難民となり、何度も病院や学校、農地、家、かんがいや水源を壊され、虫けらのように扱われ、殺され、負傷させられる日々が続いているにも関わらず、その地を離れず、信じられないレヴェルのイスラエルの破壊の後に、何度でも病院や学校、家・農地などを再建するパレスチナ人への、西側のひとびとのいら立ち・不可解な気持ちもあります。

なぜなら、西側の歴史は、イスラエルがパレスチナ人に対して行ってきたこととパターンは同じで、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドでは、西ヨーロッパから侵略してきた白人・キリスト教徒たちが、原住民たちを虐殺・エスニッククレンジング(同化政策も含む)で、大量殺人と原住民のひとびとの民族としてのアイデンティティーである言語・慣習・文化を消し去ることにほぼ成功しているからです。

だから、無意識にこれらの侵略者の子孫たちが感じるのは、パレスチナ人に黙って消えてほしい、ということです。
パレスチナ人が正義を求めて声を上げ続けること・自分たちのアイデンティティーをあきらめずパレスチナ人として存在し続けること(=自分たちを消し去ろうとすることに抵抗し続けること)は、無意識に、自分たちの祖先が行ってきた犯罪に光が照らされ、原住民を殺し、盗んだ土地・資源の上に、自分たちが快適に座っていることを思い起こさせます。

同化政策は、「野蛮で文明の光を知らない原住民たちに、文明の光(キリスト教も含む)と知識を与えるため(彼らを無知・野蛮から救うため)」という名目で、原住民のひととの子どもたちを誘拐して、キリスト教徒寄宿舎学校へと押し込め、原住民のことばを使うこと、慣習を行うことを徹底的に禁止し、厳しい体罰を加え、原住民のひとびとのアイデンティティーを消し去り、白人・キリスト教徒としての教育や慣習で洗脳させ、両親・祖父母・親戚・コミュニティーとコミュニケーションを行うことを不可能にさせ、自分たちが原住民であったことさえ、消し去ります。
原住民としてのアイデンティティーを消し去っても、これらの入植者植民地の国々では、原住民たちは非白人として、「白人」のカテゴリーに入れられず、絶え間ない人種差別を受け、警察・司法機関からの不当な扱いも止まることはありません。

日本では、アイヌ地域が日本が行った入植者植民地主義にあたり、アイヌ民族をほぼ消し去ることに成功していることで、西欧社会でもよく知られています。
西欧社会のひとびとは、日本がアイヌ地域に行ったことは残虐で許されるべきことでない、と認識していますが、自分たちヨーロピアン白人・キリスト教徒が地球上のほとんどの地域で行った入植者植民地主義、植民地主義については、盲目状態で、帝国主義・植民地主義で地球上の多くの原住民(非白人・非キリスト教徒だったひとびとで、彼らの子孫は現在でも地球上の約8割を占めるマジョリティー)を虐殺、エスニック・クレンジングを行ったことを知らないか、少し知っていても、「残虐なことが起こったのは、どちらもがやったことで、全体的には西ヨーロッパの帝国主義・植民地主義・帝国主義のアレンジメントを必要とする資本主義を推し進めたことは、世界全体にとってよいことで、自国の行ったことは英雄的なこと」という見方に刷り込まれています。

「残虐なことはどちらもがやったこと」というのは、事実ではないことに注意しておく必要があります。

数百年にわたる残虐な植民地宗主国の扱いに対して、原住民のひとびとの抵抗は続き、その中には、暴力を伴うものもありましたが、植民地宗主国の残虐さ、暴力のレヴェルとは比べ物になりません。
こういった抵抗運動(植民地宗主側は、暴動・テロリズムとフレーミング)では、植民地宗主国側の死者は、往々にして、植民地側の死者の100分の1か、それ以下で、しかも、植民地宗主側の死者は兵士などのプロフェッショナルな戦争要員ですが、植民地側の死者の圧倒的に多くは、女性・子どもを多く含む市民です。
これも、イスラエルがパレスチナ人に対して行い続けているエスニック・クレンジング、虐殺のパターンとよく似ています。

西側では、宗教・信仰は、社会やコミュニティーの隅に追いやられ、個人的なストレスなどを和らげるツールの一つぐらいに扱われています。
でも、パレスチナ人共同体の中では、信仰はひとびとの間に根付き、息をし、ひとびとは信仰を生きています。
子どもや夫がイスラエルによって殺されたとき、母や妻が言うのは、「どのようにして忍耐強くいられるでしょうか。神よ、どうぞ私に強さをそなえてください」です。
西側では「どうやってこのトラウマから立ち直ることができるでしょうか?」でしょう。

これは、とても大きな違いです。

フダさんは、西側の心理学的なフレーミングで、パレスチナのひとびとを理解することは不可能だとしています。

西側の心理学的な解析は、個人が主体で、事故やトラウマ的な出来事があった前の「普通の状態」に戻ることですが、パレスチナ人の場合、共同体的で、しかも100年近くにわたるエスニック・クレンジング、殺されたり負傷させられたり、不当に理由もなくイスラエルの牢獄に閉じ込められ拷問されること、町全体を破壊されることが繰り返し起こり続け、戻るべき「普通の状態」は存在しません。

西側でいうトラウマ的な状況は、(パレスチナ人にとっては)100年近くにわたり、現在も続いています。

西側では、パレスチナ人たちの「resilience (レジリエンス/柔らかいボールを強く握っでも、再び同じ形に戻るような、どんな抵抗にも耐えて、もとの状態に戻る強さ)_」をたたえる声もありますが、フダさんは、これは、誤った印象を与えているとしています。

なぜなら、レジリエンスは、個人に属するもので、どんな困難にも負けない特異な個人がいる、という印象をつくりだします。

フダさんにとって、パレスチナ人たちが共同体全体として、信仰心を通してもっているのは、「Conviction (コンヴィクション/確信)」だとしています。

ここでいうコンヴィクション(確信)とは、「不正義は、真実を消し去らない「私たちの苦難は、意味のないことではない」「ひとの尊厳は生き残ることができる」ということについての、確信を指しています。

フダさんは、信仰は、苦難に対して、倫理的な文脈・背景を与えるとしています。

これは、人々にその苦難に(長い間にわたって)耐える強さを与えます。

信仰は、深い悲しみが、決意とともに共存することを可能にします。

信仰は、「神は私たちを試すけれど、忍耐がある(=我慢強い)ひとびとには、よい知らせを与えてくれる(※)」ということを信じるだけでなく、そのものを生きています。

(※はじまり)
さまざまな宗教で使われる表現ですが、どんな苦難にあっても、正義が最終的には行われることを信じて、倫理的に正しい行動を選択し、行い続けること(=忍耐強さ)で、最終的には褒賞を与えられる(たとえ、それが生きている間には起こらず、死後の審判の日に正しく裁かれる・認められる、ということであっても)ということを指します。
日本では、天皇が現人神であるという思想が帝国主義を進めることに拡大解釈・利用されたこともあり、信仰や宗教に対する疑惑は強いと感じるのですが、多くの場合、どの宗教かに関わらず、信仰は、、短期的で物質的な欲求・快楽・利益・豊かさを満たすためのものではなく、ひとびとが生きる上での倫理的な指針・コンパスとなっています。
(終わり※)

確信というのは、すべての喪失は、苦難は決して意味のないことではないと約束する神によって目撃・証人されるという確信です。

多くのひとびとは、(耐えがたいほどの苦難にあっているとき)自分たちは神によって見放されたと受け止めません。

彼ら・彼女らは、これは神が描写した信仰心への試練を受けていることだとみています。

これは、絶望をよぶものではなく、信仰に根付いた、断固とした忍耐強さを呼び起こすことです。

これは、痛みに対して無関心であることを意味しません。

それらは、苦難は神との関係性を断つものではなく、また正義は神に属しているということから切り離されることでもありません。

また、信仰は、現実からの、心理的な避難ではありません

これは現実です。

パレスチナ人が、生きること、死、正義、責任をどう理解するかによって形作られた現実であり、信仰は、忍耐・持ちこたえること(どんな苦難にあっても、いつか正義が行われると信じて、倫理的に正しい行動を選択して行う)への倫理的な説明を与えます。

たとえ世界がそれをみることを拒否したとしても、ひとびとの苦難は見られている、たとえ地球上の正義が不可能にみえるときでも、正義は存在する

西側の無理解の結果、パレスチナ人たちは、往々にして、治療が必要な損傷を抱えたひとびととして描かれがちです。

数世代にわたって、家や土地・命を奪われ続けているなかでも、保ち続けた伝統やコミュニティー(共同体)から引き出す強さで生きてきたひとびと、ではなく。

パレスチナ人たちは、この状況にも関わらず、「苦難にも関わらず、私たちには何が必要とされているでしょうか?(倫理的に正しいことを行うことー自分のためだけでなく、みんなのために)」と問いかけます。
「どれだけの苦難をひとは耐えられるのか?」ではなく。

これらの答えは、心理学の本ではなく、私たちの祈り、共同体、記憶、信仰の中に見出されます。

西側の心理学がこれらを真剣に受け止めることを学ばない限り、彼らは、ガザのことを誤解し続けるでしょう。

私たちの強さの源に盲目であり続ける間(=無知であることを選び続ける限り)、彼らは、私たちの傷の目録をつくり続けるでしょう。

日本だけで育った・過ごしたひとびとが、疑いなく考える「忍耐」の概念と、フダさんが述べている「忍耐」は、おそらく大きく違います。
パレスチナ人たちは、100年近くにわたって、自分たちへの不正義を記録することをやめず、国際司法機関、国際機関、国際団体、政治団体、世界中への政府への働きかけ、抵抗運動など、使えるだけの手段をすべて使い、正義が行われることを、積極的に続けています。
誰かが自分や自分の民族などに対して、不正義をおこなっていることについて、「仕方ない」と、何もせずに攻撃を受け続けることを甘んじる、というのは「忍耐」ではなく自分の義務や尊厳を放棄していることで、「忍耐」とは、いつか正義が行われるという確信を持ち続け、すべての手段を使って、抵抗を続け、不正義を止めさせ、不正義の責任を取らせることを求め続けることを指します。
どの宗教にも、さまざまな宗派があり、違った解釈が存在するのはごく普通のことですが、イランで主流のイスラム教シーア派では、不正義に対して何もしないことは、倫理に反することである、という考えが根強いそうです。
国の指導者・政府や軍部の高官たちの多く・小学校の子どもたちがアメリカ政府とイスラエル政府によって殺されたことに対して、イランの群衆がアメリカとイスラエルに対する「復讐」を唱えることについて、西側では、彼らは(イラン国民全体が)野蛮で血に飢えているテロリスト(=西側には、イランを徹底的な爆撃で大量殺人する正当性があるーそうしないと、彼らは自分たち西側のひとびとを殺すから)」といった、現実に起こっていることから大きくワープした表現が使われがちですが、ここでいう「復讐」は、正義が行われること(不正義を行ったことへの責任を取らせることを含めて)だと解釈するのが近いと思います。

【参考】
Faith Beyond Trauma: What Western Psychology Misses in Gaza (Substack)
https://substack.com/home/post/p-204080016

The Cartography of Resistance (Substack - roqayah chamseddine) <- Find her name - I'm following her on Twitter, Lebanese female journalist -> Already lots of journalists in Lebanon Killed...
https://substack.com/inbox/post/204983133

Yoko Marta