Unselfing(アンセルフィング) ー そのものをそのまま見ることの大切さ

Yoko Marta
11.07.22 02:11 PM - Comment(s)

Unselfing(アンセルフィング) ー そのものをそのまま見ることの大切さ

よく聞いているBBC Radio 4の「Thought For the Day」より。

今回は物理学者でヨーク大学で教えているTom McLeish(トム・マクリーシュ)さん。
ここから、視聴ができます。

最近のグループ研究で、トムさんはHuman Vision(人間の視覚)について他の分野の研究者から興味深いことを学んだそうです。

人間の視覚は、環境の変化や素早い動きにはとてもセンシティブにできており、素早く適応し、人類が長期間生き残ってきたのはこの能力のおかげでもあります。
でも、ここには欠点もあります。
もし、見ているものが変化しないのであれば、たとえ短時間であっても、視覚は見えていても見えない状況となるそうです。
それを避けるために、私たちは始終まなざしを動かして、見える景色を変えています。
この適応性やものごとを知覚する能力は、脳神経のつながりに組み込まれているそうです。
この適応性のために、New Normal(新しいノーマル/新しい日常)は、その状態がモラルとして問題があっても、それに目が慣れてしまい、おかしいということを認識できない(盲目状態)となることがあります。

毎日繰り返し同じ悪い環境にさらされていると、私たちは、とても悪いことも悪いことだとして見ることができなくなります。
例えば、最近だとパンデミックでのイギリスで異様に高い死亡率や感染率にも人々はあっという間に慣れてしまいました。
また、イギリスの政治では、嘘や不正があまりにも毎日のように起こり、人々はそれを悪いことにも関わらず、悪いことだとして見ることができなくなっています。

ここで、トムさんは、イギリス(アイルランド出身で、若い頃イギリスに移住)の哲学家、小説家として活躍したIris Murdoch (アイリス・マードック)さんの唱えた「Unselfing」という概念を引用しています。
これは、Irishtimes新聞の記事からすると、「自分の注意や気づきを外の世界にむけ、自分勝手な関心毎や懸案というレンズを通してではなく、そのものをそのまま見る」ということを指すそうです。

真実、愛、他の人々のためのUnselfingに錨をおいていること。
私たちが、人間性をもった「ひと」として今日も明日も存在し続けるためには、私たちはひとびとやものごとに深く注意を向け続け、人間性を保ち続けていく必要があります。
もし私たちが人間性の欠如に適応して人間性に盲目になってしまえば、世界は人間性の欠如した殺伐としたものになる危険性があるでしょう。

そのものをそのまま見る、ということに関しては、絵を描くことにも通じるものがあるように思います。
私自身は、ふと手持ち無沙汰に感じたり、ストレスフルに感じるときは、周りの景色やひと、目の前にあるオブジェクト等をDrawingする習慣があります。
描いているときには、それが美しい・美しくないといったジャッジメントから自然に離れて、そのままの姿を鉛筆でなぞることに集中していることに気づきます。また、絵を描き始めた最初の数年は、描いているときに、家の窓の大きさはすべて同じ規格であるという知覚に邪魔をされ、一瞬同じ大きさに描きそうになった/描いたときに、実際に私の目に見えていることと違うことにはっとすることもありました。
日本で育っていた時は、学校の先生の言う通りに描かないといけないということにうんざりしていましたが、イギリスで絵を描くコースに通うと、いかに自分が表現したいことを自分のやり方で表現する方法を模索することが大事かということに重点が置かれます。
絵のテクニックは、自分が表現したいことを実現させるツールの一つにしか過ぎず、重要視はされないし、「有名な画家の絵みたい」というのは全く誉め言葉ではなく、創造性がないというネガティブな意味にとられる可能性も高いです。
有名な画家のような絵を描けるというだけであれば、その人は必要なく、別に機械的にコピーしたものでもいいはずです。人間であるということの素晴らしさは、この多様性ではないでしょうか。

また、絵を描くことに限らず、そのものをそのまま見るということは、とても難しいことです。
ヨーロッパでヨーロピアンの人々の間で暮らしていると、自分がいかに日本での慣習や考え方のバイアスを通して物事を見ていたかに気づきます。これは、外国語から日本語に訳された文献をたくさん読んだり、テクニカルに外国語がある程度分かるという頭で理解することではなく、実際に自分が育ってきた文化とは全く違う文化や慣習の国に長期間身を置き、そこにいる人々と同じ言葉を話し、同じ場、経験を共有してこそ気づけることだと思います。
その過程の中で、日本で育っている中で自分が信じ込まされていたことが、いかに自分にネガティブに影響していたかに気づき、Unlearn(アンラーン/今までの知識を完全に捨てて、一から学びなおす)したこともたくさんあります。
同時に、なぜヨーロピアンが日本の特定の慣習や考え方を問題視するのかを聞いたときに、彼らは彼らの育ってきた慣習や文化というバイアスから見ていることにも気づきます。
それは、私が両方の文化に対するある一定の深さの理解を心身ともにもっているからこそ、気づけることだと思います。

どちらが正しいということではなく、しっかりと観察し、話して相手がどういう背景からそのように考えているのかを理解するのは重要です。

英語では「Put oneself in someone else's shoes」という表現がありますが、相手の立場にたって物事を見ようとする試みは、共感する気持ちをもって相手を理解しようとしていることであり、とても人間らしいことだと思います。ただ、相手と自分が全く違う文化や慣習の中で育ってきた場合は特に、相手の言動や考え方は、文化や慣習という目に見えない無意識の部分からきていることを理解し、かつ自分自身のバイアスも理解していないと、相手の立場になって考えたつもりでも、自分勝手な見方で相手がどう思っているかをはかることになり、誤解をさらに深める可能性もあります。
このような誤解を避けるためには、さまざまな国や地域の歴史や文化や慣習を知ることは、外国語といったことばと同じレベルで大切です。

また、日本では訓練も推奨もされないことですが、ヨーロッパでは自分の考えや思いを明瞭に言葉にできることは非常に大切です。
「言わなくても分かるだろう/分かってほしい」というのは、言語能力の発達していない小さな子供たちには許されても、大人であれば、そのような言動や態度は、未成熟かつ無責任で、尊敬されません。
これは自分でも訓練できるし、他のヨーロピアンの対応から学ぶこともできるので、日本国内や日本人間ではダイレクトに表明しなくても、自分の中できちんと言語化することを習慣化していくのは大切だと思います。筋力トレーニングと同じで、言語化する努力を続けていれば、そのうち自分のものとなり、明瞭に言語化することが普通のこととなります。
これは、自分の人生にとっても、あなたの周りにいる人々にとっても、本当の意味で信頼できる関係性を作る基礎となるでしょう。

また、無意識に「自分が正しい/自分の見方がすべて」というところから始めていないかどうかに気づき、自分には知らないことがたくさんあることを認識し、謙虚な気持ちでもっと知ろうとする努力が、どの国に住んでいても重要でしょう。

Yoko Marta