The Green Catalyst
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世界はつながっているーグローバルとは

Yoko Marta
19.07.21 03:46 PM Comment(s)

私たちは誰もが同じ権利をもつ一人の人間であり対等である

 「グローバル」という言葉はイギリスでもよく聞きます。EU離脱の議論が出始めたころから現在も「Global Britain」という言葉がいろいろなところで使われています。日本の新聞等の記事でも「日本はグローバルにならないといけない」というような記事を見ますが、実際の正確な意味は何だろうと思います。

 ロンドンに住んでいると、さまざまな国々の人々と隣り合わせで暮らし、働いています。私の隣人はオランダ人とイギリス人のカップルで、下の階に住んでいる人は少し前までウェールズ人、今はイギリス人。隣の隣はトルコ人一家。一階のアート関係専門店は、スコットランド訛りの人とドイツ人がお店をマネージしている。私の知り合いのイギリス人はお父さんが半分ロシア人でお母さんはイギリス人、別のイギリス人の知り合いは、父がハンガリーの独裁から逃れて亡命してきて、母親は別の東欧の国出身者で、生まれも育ちもロンドン。大学の同級生のイギリス人たちも、背景もさまざま。カリビアン出身・育ちの両親を持つ、ロンドン生まれ・ロンドン育ちのイギリス人(長い間カリビアンはイギリスの植民地で、戦後の復興時にイギリスに貴重な労働者として招かれて多くのカリビアンや旧植民地の人々がMother Land(=イギリス)へとやってきた)。父がパキスタン出身で母はスコットランド出身等、さまざまです。日本だと、人種と国籍がつながっているかのような感覚が無意識のうちにもつかもしれませんが、イギリス人、フランス人というときに、人種は関係ありません。イギリスは白人が多い国ではあるものの、この「白人」という括りも確固としたユニバーサルな定義があるわけではなく、南アフリカで白人と定義される人々とヨーロッパ全般で白人と定義される人々には違いがあり、この人種という定義がいかに政治的に操作されたもの(人為的に作ったカテゴリー・階級に人々を割り当て、政治的・社会的に抑圧・差別する仕組みをつくり、植民地支配側が土地や尊厳を奪われた多くの植民地のもともとの住民たちを搾取し続けるようにする)かを語っていると思います。大学のようなアカデミックな場所でも、両親がエジプト出身のイギリス人の同級生(イギリス生まれで心理学の学位を取り10年以上心理療法士として働いてた)が、大学に登校するたび、正門でセキュリティーから繰り返し尋問されることで、大学に対して苦情を挙げていたことからも見えるように、人々のPrejudice(偏見)は政治的・社会的にも深く組み込まれているのでなかなか変わるのは難しいですが、人々が目を背けず声をあげ、きちんと話し合うことで少しずつ良い方向に進めるしかないのかもしれません。

 仕事が終わってから大学の英語コースに1年近く通っていたときや友達の友達との交流等含め、ヨーロッパだけでなく、多くの国々からの友人や知り合いに出会うことができました。アフガニスタン生まれなものの、当時のソ連の侵攻によっての迫害、その後はタリバンの侵攻により家族でイランに逃げざるを得なかった友人等、世界中の国々で、自分にとって親しい顔が浮かぶのは、改めてどの国に生まれ育とうとも、私たちはこの地球をシェアしている仲間なのだと感じざるを得ません。また、世の中には貧困だけでなく、常に他国からの脅威にされされて戦争に巻き込まれる国々(イエメンの代理戦争等)は数えきれないほどあり、市民戦争や他国からの侵略等の可能性をほぼ無視できる日本は数少ない幸運な国であることを思い知ります。私の知っている人々は限られているものの、いろいろな国々での一市民の普通の毎日の生活を知ることは、とても勉強になるし、どんな状況や地域で暮らしていても、私たちは、悲しい・うれしい思いや希望を持ったりして生きている同じ人間なのだということを感じます。これは、通訳を通しての会話だったら本当の意味で分かりあうのが難しかったと思うし、英語を話すことができてよかったと思う点です。もちろん、後進国と呼ばれる国々から先進国へきている人々は、その国では中流階級かそれ以上、或いは学術的に優れていて国の奨学金で留学していることも多いので、彼らの暮らしや話が彼らの国々での一般市民の暮らしとは大きく違う可能性もあるということも頭の隅にいれながら聞いています。仕事上でも様々な国々の人々と働いてきましたが、大事なのは、Don't assume, ask (決めつけずに、聞くこと)だと思います。自分の偏見や思い込みは自分ではなかなか見えないものだし、相手がどうしたいか、どう思っているのかは聞かないと分かりません。ただ、これは本来なら日本で働いていて日本人とのみ働いていても適用されるものだと思います。これには、「私たちは誰もが同じ権利をもつ一人の人間であり対等である」が土台にあってこそ成り立つのだと思います。日本のように、無意識も含めて、自分より誰が下か上かを常に決めるような社会では、自分より下だと見なした人々(彼らが自分は「下」だとは思っていなくても)に対して彼らの意見を尊重するという発想自体が難しいのかもしれません。私の友人のうち何人かはヨーロッパのトップ大学を出て、大きな企業で給料も日本円でいうと数千万円もらうような仕事をしていますが、「自分がこの地位にいるのは、自分が特別に優れているわけじゃない。たまたま条件のそろった場所や家族、経済状況のもとに生まれただけで、それ自体になんの価値もないし、私がその条件を得るために何ら努力をしたわけでもない。世の中には、私よりも優れていて人間的に素晴らしくても、貧しい国々に生まれて成人にさえ届かず死んでいく人々もたくさんいる」と言ってました。一人は中東・アフリカ大陸で医者一族の家に生まれて、祖父母の時代に、市民戦争が起こり、隣の国に亡命したものの、その国で今度は外国人への排斥運動が起こり、また別の国に亡命。彼女はその中東・アフリカの中でも比較的落ち着いた国で育ったものの、やはり外国人であることと、その国の主要宗教とは違う祖父母の国の宗教を信仰していた為、いつ排斥が起こるとも限らず、彼女を含めた子供たち全員はイギリスの寄宿舎学校に送られたと言ってました。彼女は英語も母国語、育った国の言語も母国語、両親が住んでた国の言葉も分かり、仕事はイギリスを中心に中東付近もカバーとグローバルですが、彼女の前述した姿勢の「すべての人が対等で平等で、お互いを尊重」が真の意味でのグローバルなのだと思います。誰が自分より上か下かと決めて、自分自身も上げたり下げたりするような仕組を抜け出して、誰もがお互いを尊重し話し合い、お互いの一番納得できるポイントに着地できる社会のほうが誰にとっても過ごしやすいのではないでしょうか。

Yoko Marta