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Assertion (アサーション) ー 2

Yoko Marta
06.07.23 10:27 AM Comment(s)

Assertion (アサーション) ー 2

日本では、「まず義務を果たしてから権利を主張」ということを多く耳にした気がしますが、基本的人権(誰もが平等・対等に扱われること等)は、生まれながらに誰もがもっていて、かつ誰にも奪うことのできない権利であり、義務は関係ありません
さまざまな理由や事情で働けなかったりしても、そのひとのひととしての価値には全く関係なく、誰もが対等で尊重されるべき存在です。
それに、こういった間違った主張をしている人々の言う「権利」や「義務」とは、具体的に何でしょう?聞いても、明確でダイレクトな答えは返ってこないかもしれません。

これを元に、前回のAssertion(アサーション)の続きについて。

前回の「15. 自分の行動に責任を持つ」については、自分とほかの人々とのバウンダリーを明確に意識する必要があります。日本では、会社は家族のようなものといったり、家族内でも子供や妻を自分の持ち物のように無意識に思っている人もいると思うのですが(極端な例は、心中で子供を道連れにする→ ヨーロッパでは殺人とされ、心中と言うことばも概念もない、家庭内暴力で妻や子供を殴ったりするのは自分の身体の一部を殴っているのと同じだから問題ないといった間違った正当化)、生まれた時点で、私たちは一人一人がユニークな「ひと」であり、他の人々ととは違う夢や希望を持ったり、意見をもつ権利があります。

その上で、「15. 自分の行動に責任を持つ」は以下となります。

  • ほかの人々を尊敬をもって扱うこと、他の人々が差別されたり不当に扱われているのを見た場合は、その状況に対決・立ち向かうこと

  • 他の人々の意見や見方を、提案を聞き、それらに対してレスポンスを与えること

  • たとえ他の人々に賛成できないとしても、彼らの意見や見方を一方的に却下しないこと

  • 自分のリクエストは、断られる場合もあるということを受け入れる

  • 他の人々は、建設的なやり方である限り、私の行動に対して批判をする権利があることを受け入れる 

  • 他の人々が間違いをしたときに、共感をもって理解しようとする

  • 他の人々から頼まれたときに、自分のもっている情報をシェアする

  • 他の人々は、自分たちのために立ち上がり発言する権利があることを尊重すること

この中で、日本文化の中で分かりにくいと思われるものについて、少しことばを加えます。

「他の人々は、建設的なやり方である限り、私の行動に対して批判をする権利があることを受け入れる」についてですが、大事な点は「建設的なやり方」と「私の行動」という部分です。
行動(Doing)については、ひとはどんな状況でもエージェンシーがあり、選択することが可能で、その人の選択した行動についてはその人の責任で、建設的な批判を行うことには問題ありません。
でも、「Being」について批判することには、問題があります。
この「Being」とは、肌の色、人種、民族、体形、性別、性的オリエンテーション、特定の宗教を信じていること等、その人にとって本質的なもので、変えることのできないものです。
この違いをよく理解しておくことは大事です。
また、ある時点で、「行動(Doing)」に間違いがあったとしても、その人の「Being(本質)」には影響しません。
「行動(Doing)」と「Being(本質)」は二つの異なったものと見なされます。
本人が間違いを真摯に認め、反省し、行動を改め、被害者がいる場合は法律や社会のルールに従った罰を受けることは必須です。その人が選択した行動の結果と責任から逃れることはできません
「みんながやっていたから/上司に命令されたから、自分の行動には自分は責任がない」というのは、ヨーロッパでは非常に分かりづらいことです。なぜなら、人間である限り、エージェンシー(いい・悪いを判断する内面のモラルも含めて)があり、選択する能力があり、その結果が特定の行動だからです。たとえそれが、権威者の言う通りにした、といっても、「権威者の言う通りにすること」を選択し行動に移した責任はあり、その結果についても責任があります。もちろん、逆らうことが確実に「死」を招く場合には、相応の考慮はなされます。
また、家族の一人が犯罪を犯したからといって、他の家族に非難がいくことはありません。
大人であれば、本人が行動を選択して実行しているので、その人の行動の責任はその人にあります。家族内の他の大人の行動について、誰もコントロールもなければ、責任もありません。

また、「建設的なやりかた」というのは、客観的な事実に基づいていてお互いにとって良い解決方法を探そうとするものであり、個人的な攻撃ではありません。
アサーションとは、お互いに話し合い、譲り合う・歩み寄るスペースを持ち、互いにとって一番よい解決方法を探ることであり、どんな手段を使っても相手に勝つ・相手を言いなりにさせるという攻撃的なものとは反対です。
また、相手のいうことを、それが正しいかどうかの検証もせず、すべて事実だと信じ込んでしまうのは受動的で、自分自身を大切にしていない、尊重していないこととなり、これも不適合な対応です。

建設的な批判の仕方の例としては、以下となります。

  1. 相手は、尊敬をもって扱われる権利があることを受け入れる

  2. プライバシーを重んじ(他の人の目の前で言ったりはしない)、時間と場所を慎重に選択する

  3. 明確で、固有な発言をする 例)「あなたは、ミーティングに、今日・先週と1時間遅れてきました」

  4. あなたの感情を述べます 例)「あなたが連絡なしで遅刻すると、私もとても心配になります」

  5. この段階で、相手の意見や見方を聞く機会を開くことがとても大切です。その上で、「どうやったら、私たちはこれを解決できるかしら?」といった問を一緒に考えます。

  6. 相手の新しい行動の結果がどうであるかを明確に述べます。合意ができれば、ポジティヴな結果を述べます。もし、合意が形成できなかった場合、あなたが相手に対して、どのような行動を期待しているか、どのような結果が起こるかを明確に述べます。

  7. 合意した話し合いのポイントとともに、ポジティヴなコメントで締めくくります。

大事なのは、相手にも発言の機会を十分に与えることです。何か特別な事情があったのかもしれないし、誤解があったのかもしれません。相手の立場や状況から、ものごとを見る視線や姿勢はとても大切です。

批判の受け取り方の例
基本的に、あなたの「行動(Doing)」への批判であり、あなたの本質である「Being」とは関係のないことを常に意識しておきましょう。もし、相手があなたの「Being」(例/人種や体つき、顔等)を批判しているのであれば、それは建設的な批判ではなく、中傷です。

  1. 言われていることを注意深く聞きます

  2. 相手の言っていることを理解できたかどうかを自分でチェックします。少しでも不確かなことがあれば、相手に質問します。

  3. 以下の反応は避けます
    直接的な攻撃: 激しく否定する
    間接的な攻撃: 何も言わずに不機嫌になる
    受動的な反応:言われたことが全て真実だと信じる

  4. 批判内容が事実なのかどうかを判断します
    完全に事実/一部は事実/完全に事実ではない(嘘や完全な誤解等)

    対応例としては、以下となります。

    批判内容が、完全に事実であると判断した場合
    明確に批判内容を認めていることを述べます
    例)はい、あなたの言っていることは事実です
    あなたがどのように感じているかを述べます
    例)私も、それについては悪いと感じています
    あなたの行動が相手にどんな影響を及ぼしているかを聞きます
    例)これ(私の行動)は、あなたにとって物事を難しくしていますか?

    批判内容の一部が事実だと判断した場合
    事実であると思われる部分については賛成します
    例)ええ、私は時々無責任な行動をすることもあります
    残り(事実でない部分)は明確に否定します
    例)私は、ほとんどの場合は、とても分別のついた行動をしています

    批判内容が、完全に事実とは違っていると判断した場合
    明確に確固として、批判された内容を拒否します
    例)いいえ、私はあなたの言うことに賛成しません。私は愚かではありません
    個人の見解を付け加えます
    例)私は、知性をもった女性です
    なぜ、相手がそのように思ったかを尋ねます
    例)何があなたにそう思わせたのでしょうか?

    5. 批判内容からあなたが何を学んだかを考察します。結果として、自分の行動を変えたいかどうかを決めます。もちろん、批判内容が完全に間違っていれば、行動を全く変えないことも選択肢のひとつです。

    日本人相手だと、自分は「上」だから、「下」であるあなたが、批判に値することをしたかしないかに関わらず、とにかく謝れという人々は存在するでしょう。
    でも、本来は、おかしなことです。
    相手や状況をどう扱うかは、あなたの置かれている状況にもよりますが、明確に批判の内容の理由付けができない場合、相手が八つ当たりをしていたり、その人のミスをあなたに押し付けようとしていたり、あなたを貶めることで自分を良く見せようとしているのかもしれません。
    あなたの職場や学校等の環境下で、役割や立場が「部下」や「目下」であっても、あなたには、自分の事実を語り、相手にそれをしっかりと聞いてもらう権利があります
    ただ、これらのいわゆる権威者がとても未成熟で、あなたがどんなにフェアな言動を行っていても、彼らにはそれを受け入れる能力が欠けている場合もあります。ヨーロッパであれば、そういった権威がある立場の人に対してのチェックと均衡をとるための機関や仕組があるのが普通で、そういった場所に相談しにいくこととなります。
    日本のように「目上のものには100パーセント服従」という間違った神話が浸透している場所では、難しいかもしれませんが、少なくとも、相手の言っていることが事実でないことは認識しておきましょう。
    事実に基づかないことで責めるのは、中傷であり、中傷するという行為は、特に中傷を行う側により権力がある場合は、とても卑怯で恥ずかしい行為です。中傷された側に、非は全くありません。

ただ、上記のような理性的で論理的なやりとりをしていれば、相手もその人自身の理不尽さを周りにさらすことになるので、次回からは、あなたを標的にすることには、とても慎重となるでしょう。

自分のために立ち上がることは、簡単ではありませんが、必要なことであり、実行を重ねていくうちにどんどん自分のものとなっていきます
できれば、日常の小さなことから練習しはじめるのがよいでしょう。
バランスの取れた(できれば)ヨーロピアンの友人や知人たちの対応の仕方を観察するのも、よい勉強になります。

自分が悪いことをしていないのに謝るのは、ヨーロッパではとても間違った行動です。
あなたは、いつも状況を説明する機会を与えられます。
悪いことをしたと認めるということは、それなりの責任を負うということにもなります。他のひとの間違った行動について、あなたがどう責任を負うのでしょうか?
また、その責任を逃れた人は、同じことを繰り返し、あなたに責任を押し付けるのが当たり前となる可能性は高いでしょう。あなたが(当然のことなのですが)拒絶することを選択すると、逆恨みをするかもしれません。
自分の権利やバウンダリーを侵害する行為には、初期の段階で、遠慮なく「No」をつきつけましょう
これは、一時的には居心地が悪くなることがあったとしても、中期・長期的には、あなた自身を守ることともなります。

次回は、「No」と言うことについて。 a text box.

Yoko Marta